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【個人的エッセイ】戦いの歴史

 生き物の歴史とは戦いの歴史であると言っても過言ではないでしょう。熾烈な生存競争や過酷な環境変化により、多くの種が既に絶滅しました。今まさに絶滅しようとしている種もあります。その絶滅に人間の営みが関与している事を示唆する研究は枚挙に暇がありません。

 人間の歴史もまた戦いの歴史です。多くの国や文化が多くの戦を経験し、多くの血が流された結果今の世界があります。日本でもほんの80年前まで戦争が行われていました。今まさに戦争している国もあります。当たり前のように命が脅かされる地域もあります。暴力によって他者から奪い取らなければ日々の糧を得られない地域もあります。それに比べれば日本は平和だとよく言われます。
 しかし、本当にそうでしょうか?

 物理的には確かに日本は平和かもしれません。しかし経済の上では多くの企業が顧客の獲得と売り上げの向上を狙って鎬を削り、学生は受験戦争で若い頃から蹴落とし合いを強いられています。ネット上では当たり前のように言葉の暴力が飛び交い、多くの人が傷付いています。実際に心の傷が理由で自ら命を絶つ方さえいらっしゃいます。この状況は本当に平和と呼べるのでしょうか?

 私の個人的な信条では、平和と安全はコストを支払わなければ手に入らないものです。弱き者は常に強き者から搾取される。それを食い止めるには自分自身が強くならなければならない。それは野生動物も人間も同じだと思います。

 だからこそ、多くの者が自分の力を振りかざして威嚇したがる。自分をより大きく、より強く見せて無駄な戦いを避けようとする。無駄に傷付かないようにする。多くの動物がこの生存戦略を取ります。人間もきっと同じなのでしょう。これは私自身にも当てはまる事だと思います。私もこうして言葉を振りかざして威嚇しているのかもしれません。

 ある者は他者を傷付けたり愚弄したりする事で自らの優位性を示したがる。現実世界でそれを行えば他者から後ろ指を指されたり逮捕や刑罰にまで発展したりしますから、ネット上で言葉の暴力という形でそれを実行する。暴力による威嚇は凡そ全ての動物が持つ抗い難い本能なのかもしれません。

 ですが、剣を握った手で握手は出来ない。戦わずに協力出来るのならば、お互いにとってより良い選択が出来るかもしれない。その歩み寄りがいくつかの奇跡を産みました。犬という種族が生まれたのは、人と狼の双方が剣を引き牙を収め、共に生きようと努力した結果であると私は信じています。

 きっと、信じる事はとても難しい事です。人間を含む動物の本能には恐らく「悪い事はきっと起こる、だから身構えろ、警戒しろ」と書かれています。それに抗って無防備になる事はとても難しい事でしょう。私自身もそう簡単に無防備に誰かや何かを信じる事は出来ません。

 ただ。

 誰の事も何の事も信じられないのは、とても寂しく苦しい生き方だと私は思います。だから私は少なくとも【セリアンスロピー/Therianthropy】を信じます。自分の動物的本能を信じます。自分が信じたいと思った仲間を信じます。そして自分の信念や自分の仲間と共に、自分たちを脅かす脅威と戦います。多くの動物たちが今までそうしてきたように。


【セリアン/Therian】のコミュニティもまた、多くの戦いを経験してきました。そもそもマイノリティだから、普通の人間ではないからという理由で個々人が受ける偏見や迫害。【セリアンスロピー/Therianthropy】そのものに対する妥当性の嫌疑。【ティーン ウルブス/Teen Wolves】が起こした内乱。思想や信条の違いによるコミュニティの内部分裂。そして個々人の間で起こる人間関係のトラブル。本当に数え切れないほどの戦いが日常的に起こります。
 だからこそ個々のコミュニティは疲弊し、細分化され、閉鎖的になっていきました。戦えば誰もが消耗します。だから戦いたくない。戦わずに済ますためには互いにソーシャルディスタンスを取るべきだ。そうやって多くの【グレイマズル/Greymuzzle】の方々が表舞台から姿を消していきました。
 そしてTikTokに現れた「自称セリアン」が派手なパフォーマンスを衆目の前で披露した結果、多くの無関係な一般の方々が【セリアンスロピー/Therianthropy】について誤解するようになってしまった。その果てに日本に歪んで伝わった「テリアン」があります。私はこの歴史の流れに本当に心を痛めています。


 私は無益な戦いを好みません。【コーピングリンク/Copinglink】も【クアドロビクス/Quadrobics】も【セリアン ギア/Therian Gear】もそれ自体が悪い事だとは思いません。個々人が幸福になれるのであれば、それで良いと思います。ただ、他人の迷惑にならないようにだけしていただければ幸いです。

【セリアンスロピー/Therianthropy】そのものが妥当か否かという疑いも認めます。私は個人的に【スピリチュアル セリアンスロピー/Spiritual Therianthropy】だけでなく【サイコロジカル セリアンスロピー/Psychological Therianthropy】も【ニューロロジカル セリアンスロピー/Neurological Therianthropy】も信じます。人類が産み出した叡智の結晶たる科学を尊重します。人間という種が自らの種族特性を最も発揮して作り上げ鍛え上げた「強さ(Strength)」を尊敬します。
 だからこそ、こと科学というフィールドでは「【セリアンスロピー/Therianthropy】はただの勘違いかもしれない」、「私は【セリアン/Therian】ではないかもしれない」という疑いを真っ向から受け止めます。
 科学は常に「かもしれない」という仮説から始まり、その仮説を立証するための証拠を集め、隠された法則性を明らかにします。それと同時に反証可能性を常に担保する事でパラダイムシフトの機会を保障しています。
【セリアンスロピー/Therianthropy】はまだ「そのような現象が存在するかもしれない」という仮説の段階である事を私は認めます。当然の事ですが、「存在しないかもしれない」という逆の可能性も認めます。今後の研究の行方次第では私自身も「本物の【セリアン/Therian】」ではなくなってしまう可能性がある事も認めます。その上で私は一人の「自称【セリアン/Therian】」として自分の経験や考えを述べています。

 そして、疑った上でそれでも私は信じます。【セリアンスロピー/Therianthropy】そのものが科学的・心理学的に分解され研究される事を是とするだけでなく、【セリアンスロピー/Therianthropy】というある種の「信仰」をも信じます。信じる事で私自身が救われるからです。これは私のごく個人的な「信条」であって、科学ではありません。私は客観的事実と個人的信条を切り分けて考えます。だからこそ、私は仮に【セリアンスロピー/Therianthropy】が科学的に否定されたとしても、それでもなお「信仰」としては信じ続けます。それは科学のためではなく、私個人の幸福のためです。科学は万人の幸福の為、信仰は個人の幸福の為にこそ在るべきだと考えます。

 それに、少なくとも私と同じような経験をした方々が世界にはある程度存在し、米国ではかなり本格的な心理学的研究が為され、米国心理学会(American Psychological Association) から【セリアンスロピー/Therianthropy】と【アザーキニティ/Otherkinity】に関する論文が発表されているのも紛れもない事実です。

 全て英語で書かれている上に有料ですが、件の論文には〔こちら〕からアクセスできます。

 ですから、こと米国では既に【セリアンスロピー/Therianthropy】は学術的研究対象としてテーブルの上に載っています。個々人の勘違いやただの妄想として一蹴されるのではなく、少なくとも科学のフィールドで真剣に議論され研究される対象として存在が確立し確定しています。たとえ今後の研究次第でその存在が否定されたり新たなラベリングがされたとしても、我々のこの感覚や感情は今現時点で既に科学と心理学が拾い上げてくれているのです。

 論文の冒頭に記された声明文の日本語訳を引用させていただきます。

我々の社会で「普通とは違う事」に対する不寛容や暴力が増大する中、我々心理学者の使命は、世界を万人に対してより住みやすい場所に変革出来るよう努める事だと心得る。【セリアン/Therian】や【アザーキン/Otherkin】の生の経験に対してより詳細な学術的調査の機会を提供し、【セリアンスロピー/Therianthropy】や【アザーキニティ/Otherkinity】に対する理解が進む事を望む。また、一般人による差別的な待遇から【セリアン/Therian】や【アザーキン/Otherkin】を守る事により、彼ら彼女らが過去に受けた不名誉を雪ぐと同時に、謂れのない精神疾患の疑いを懸けられるリスクを減らし、より建設的な心理的実践を提案出来る機会が増える事を願う。

The Jackal in the City: An Empirical Phenomenological Study of Embodied Experience Among Therians and Otherkin

 このように、少なくとも米国の学術研究の場では、我々【セリアン/Therian】は既に存在しています。米国のプロの研究者たちが、我々【セリアン/Therian】の存在を認知し、手を差し伸べてくれているのです。
 そして科学が反証可能性を保証してくれる限り、たとえ将来的に【セリアンスロピー/Therianthropy】の存在そのものが疑われても、「存在しないのではないか、ただの勘違いなのではないかという仮説」に対する反論の機会はもう決して失われる事はないのです。日本では常に重視される「前例」が米国では既に存在しているのです。

 だからこそ私は【AHWW(Alt.Horror.Werewolves)】と【グレイマズル/Greymuzzle】の方々に並ならぬ敬意を表しています。
 だからこそ私は遺そうと尽力しています。【セリアンスロピー/Therianthropy】の概念が未来の誰かに届く事を願って。
 たとえ一般の方々から見向きもされなくとも、否定されようとも。日本のテリアンの方々から煙たがられようとも。私は「米国では科学と心理学が我々に手を差し伸べてくれた」という事実こそを大切にします。

 そして私は【セリアンスロピー/Therianthropy】という概念を存続させるために戦います。差別や偏見や心無い言葉に抵抗します。何かを打ち負かすための戦いではなく、何かよりも優れている事を証明するための戦いでもなく、生き残るために、滅ぼされないために、あらゆる差別や偏見や心無い言葉に対して毅然とした態度を取り続けます。そのために可能な限りのコストを支払い続けます。「平和」と「安全」というとても脆い現象を少しでも長続きさせるために。

「生命」という現象と同じで、「平和」や「安全」という現象もとても脆く、失われやすいものだと私は思います。だからこそ尊く、だからこそ守るべき価値があるのだとも。
 だからこそ私は武装します。無抵抗主義が平和を実現する手段だとは考えていないからです。だから私はあくまでも動物的に威嚇に頼ります。筋力と牙では歯が立たない事が分かっているので、情報と言葉で武装します。そして一度武装した上で一時的に武装解除して交渉に臨みます。不平等な条約を押し付けられないように。いつか一般の人々と【セリアン/Therian】や【アザーキン/Otherkin】が対等に対話出来る日が来る事を願って。いつか人間と動物が真に対等に対話出来る日が来る事を願って。

 仮に私のこの態度や考え方がとても「人間的」だとしても、【セリアンスロピー/Therianthropy】や自分自身の信条と矛盾するとしても、それでも。少なくとも「科学を信ずる図書館司書としての私」はそうするべきだと私は考えます。「ただの一匹の獣としての私」では、残念ながら自分の帰るべき居場所を守る事が出来ないからです。そして未来の【セリアン/Therian】たちが少しでも幸福に生きるための礎を築く事も出来ないからです。

 だから私はこの命が続く限り戦い続けます。自分なりの方法で、出来るだけ平和的に。死なないように。絶滅しないように。滅ぼされてしまわないように。
 生き残ること。図書館として此処に建ち続ける事。他人に何を言われても決して挫けない事、屈しない事が私の戦い方です。

 私は命懸けで【セリアンスロピー/Therianthropy】を守ります。