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信仰の「見える化」

 まず初めに言っておくと、【セリアンスロピー/Therianthropy】と宗教は直接的には関係ありません。
 あくまでも「部分的に関係ある」、或いは神道やシャーマニズムなどのアニミズム的宗教とはオーバーラップする部分があるだけで、【セリアンスロピー/Therianthropy】や【アザーキニティ/Otherkinity】そのものが新興宗教の類というわけではありません。
 とはいえ、「何を自分の人生の軸にして生きていくか」という多くの宗教が取扱い実践するテーマを【セリアンスロピー/Therianthropy】でも中核としている以上、どうしても類似点は生じます。ですがあくまでも「似ている」だけで「同じ」ではないと覚えておいていただけると幸いです。

 また、今後私は便宜的に「信仰」という単語を用いますが、これは英語では「Faith」や「Conviction」に相当する語です。「神を信じる信仰心」ではなく「自分自身のアイデンティティや自己イメージを信ずる信念」ですので、誤解の無きようにお願いします。

【セリアンスロピー/Therianthropy】の「信仰」の歴史

 他の項でもお伝えしたとおり、【セリアンスロピー/Therianthropy】の創始者は【AHWW(Alt.horror.werewolves)】です。「自分自身の事を人間ではない動物であると定義している者」を【セリアン/Therian】という名前を付けて定義したのが【AHWW(Alt.horror.werewolves)】。少なくとも、今日のネット上におけるセリアンのコミュニティと信条の基礎はここから始まったと言えます。

【AHWW(Alt.horror.werewolves)】に集っていたメンバーを「第一世代」と定義するなら、AHWW解散後に分散しながらも立ち上がったセリアンのコミュニティ群は「第二世代」と言えます。
 分かり易いように、あえて人類史の宗教で例えるならば第1世代は「開祖の時代」、そして第二世代は「神学の時代」と言えるかもしれません。
 御釈迦様やイエス様に相当する「開祖」の亡き後、それぞれの派閥や流派に分かれたセリアンが多くの「寺院や教会」に相当するコミュニティを開き、「【セリアンスロピー/Therianthropy】とは何か」について深い考察や研究を行っていた時代が第二世代に相当します。
 私自身もこの第二世代に属していた立場で、【セリアンスロピー/Therianthropy】について、仲間と共に深く考察しました。それ故に皆様に対して情報を提供出来る立場にあります。

 そして今TikTokで活動しているのは、言わば「第三世代」です。
 宗教で例えるならば「一般化の時代」に相当するでしょう。
「仏像や十字架に祈れば救われる」
「お賽銭を入れれば御利益がある」
 そのように信仰がカジュアルになり、簡易的になっていく過程で形骸化してしまうのは避けられない事なのかもしれません。

 これは宗教に限らず、人間のあらゆる文化にも同じことが起こります。

 宗教ないし人間のあらゆる文化は、長い月日をかけて現在の簡略化された形態へと至りました。
【セリアンスロピー/Therianthropy】の場合は僅か30年あまりでこのサイクルを再現してしまったと考えられます。或いはインターネットは信仰の成熟を加速させてしまうのやもしれません。
 これは、情報の相互伝達に革命が起きて久しい現代でこそ起こった現象なのかもしれません。個人ではどうすることもできないその「時代の流れ」を事実として受け止める一方で、それによってコミュニティにもたらされた多くの弊害と形骸化については、我々の世代が少なくともある程度は食い止めねばならないと考えています。

信仰の簡易化と形骸化

 第二世代の私からすると、第三世代の方々の「信仰形態」に対してどうしても寂しい想いを抱いてしまいます。
 元来宗教の本質とは「仏像や十字架に祈れば救われる」「お賽銭を入れれば御利益がある」というギブアンドテイクのような関係ではなかったはずです。
「たとえ目に見えずとも、神様や仏様に対して感謝の意を捧げる」
「神様や仏様に対して恥じぬように自分の生き方を律する」
 これが宗教の本質でした。

 しかし、今は必ずしもそうではなくなりました。
「数珠を持って手を合わせているから私は仏教徒だ」
「お正月は神社に初詣に行くのが神道だ」
 という風に捉えている方の人々が、むしろ多いと思われます。

 これらの簡易化と同じような流れで「【セリアン ギア/Therian Gear】を装着してさえいれば【セリアン/Therian】である」というように、信仰をアイコン化する風潮が、今の若年層を中心に広がっています。
 これに対し、私は世代的に抵抗感を覚えてしまいます。

「アイコン」の語源は英語の「icon」です。日本では「アイドル」といえば「マスメディアで注目を集める有名人」という意味で解釈されてしまうでしょう。しかし語源である英語の「idol」は「神を象った偶像」を意味します。「icon」も「idol」も英語では「仏像や十字架のような神仏を表現する御神体」を意味します。それがいつしか「偶像崇拝/idolatry」となり、「神様や仏様ご本人を崇める」のではなく「仏像や十字架というアイコンやアイドルを崇める」という誤解が生じていきました。

「神学の時代」を生きた私個人としては、仏像や十字架そのものが神様や仏様そのものだという偶像崇拝が広まっていく様がどうしても悲しく思えてなりません。お経も聖書も読まず、本来の経典に何が書かれているかにまるで興味を持たず、しかし仏像や十字架のみを振りかざして宗教を説くのは信仰の在り方として正しいと言えるのでしょうか?

【セリアン ギア/Therian Gear】そのものを否定するわけではありませんが、そのアイコンに秘められた動物の本質についてどれほどの【セリアン/Therian】が真摯に考えているか、私は懐疑的にならざるを得ません。

 今は日本のコミュニティだけでなく海外のコミュニティまでも、【セリアン ギア/Therian Gear】や【クアドロビクス/Quadrobics】が流行して、本来の「動物としての精神性や生き方の道標」が見失われようとしています。そもそも海外のコミュニティで流行していたこれらの「トレンド」を輸入したからこそ、日本の「第三世代の信仰」は今のような形態になってしまったものと推測されます。

 大量生産大量消費が当たり前になってしまった物質社会で生きているからこそ、モノでは満たせない心の空隙を埋める何かが必要とされているのかもしれません。それは宗教かもしれませんし、家族愛かもしれませんし、仲間との信頼関係なのかもしれませんし、打ち込める趣味なのかもしれません。

 いずれにせよ。

【セリアンスロピー/Therianthropy】の「神学の時代」を生きた者の一人として、信仰の本質が次世代に正しく継承される事を願ってやみません。