秘すれば花 (インフルエンサー)
カウンセリングというものを受けてみた。
オンラインで。
うまくいかなかった。
話したいことがうまく話せなかった。
話したことに対して「でもそれって〜〜ってことなんじゃないの?」のような反応をもらった時に、
「あぁ、今日はもうダメだった」と思ってしまった。
でもそれは「この人わたしのこと全然理解してくれない」だとか、「わたしももう少し違った言い方があったんじゃないか」のようなことでもなく。
「何でも話せばいいってものでもない」ってことを、また忘れてしまっていたな、ということ。
わたしは頑固かもしれません。こだわることがはっきりしすぎるせいで、いつも結果にくよくよしているのかもしれません。
でも、本当にそうであろうとなかろうと、
「理解してもらわなくたっていいもの」を自分の中に少し留めておくことだって、とても大切だったりするのかなと、時々考えさせられる。
何でも共有しようと思えば随分と容易く共有できる時代になったけれど(こういう台詞もだいぶ聞き飽きたくらいに)、
共有する・したいことがインターネットや言葉の中で運ばれていくたびに、
「いや、それはモノじゃない」
と思ってしまうことがよくある。
何でも物質的になってしまうように、パッケージングされて収まってしまうように見えること(しかも場合によっては、もしかしたら本人の意図しない形で)に、恐れを抱いている。
せめて、そこに乗せているのは何だい? と確認作業を入れないと、
何でもかんでも自分以外の、その人以外の、意図しない何かになっていってしまうような気がして。
『秘すれば花』
という言葉を、最近好きで観ているドラマでよく耳にするけれど。
段々と聞いていくうちに、これはタイムリーにとても重要な意味を持った言葉なんじゃないかと思ったりする。
見せる(魅せる)・表す(現す)、その『程度』を考慮する。
自分にとっても、見せる相手にとっても、「ちょうどいい」ところを考えて、表現する。
それによって生まれてゆく、ポジティブな意味での想像力がとても必要なのだ。
きっと、今、誰にとっても。
難しいテーマに対してさえもきっと、軽やかな関係性をもたらしてくれる。
「何でも話してね」
言いがち、言われがちなこと。
でもその前に、「何でも話してみる」を目的にするのではなく、
「話すことで何かを変えられるか?」
「何を好転させたいか?」
「どんな風に良い影響をもたらすことができたら嬉しいか?」
こんなことを考え、お互いにとってポジティブな想像や発想ができるようになりたい、なっていたい。
きっと、それでこそ、表現者なのだ。
わたしの文章や占いには、よく「自分」という言葉が出てきます。 これは「自分」というものを励ましたい、「自分」が自分らしくありたい、という願いのあらわれなのだと思っています。 読んでくださる方も「自分らしく」いられるように、少しでもその励みになることができたら、とても嬉しいです。