音が彩る想像力
「ママ、今日はローストビーフらしいよ」
昼食のサンドイッチを食卓に運んでいる私に、ラジオを聞いていた娘が嬉しそうに教えてくれた。
「そうなん?いくらするんやろね?」
「ママ、もしかしてこれ欲しいの?」
娘の向かい側に座り、二人で「いただきます」と声を合わせた。
私が一人で昼食を食べるとき、radikoで出身地の関西のFMを聞くようになったのは、1年ほど前のことだ。
大学時代に聞いていたDJの声がスマートスピーカーから聞こえてきたときは、思わず
「懐かしい!」
と叫んでしまった。
当時から全く変わらない元気な声と話し方に、実家にいた頃を思い出した。
家族でいるときは音楽をかけるか、テレビがついていて、ラジオは私が一人で聞くものになっていた。
それが、休校になった頃から、昼食のラジオは娘と一緒に聞くようになった。
初めはラジオから流れるDJの声を音としかとらえていないような感じだったが、時間が経つにつれて、情報へと変化していくのがわかった。
中でも娘が興味を持ったのはラジオショッピングだった。
DJとショッピング担当の男性が生き生きと繰り広げるやり取りを集中して聞いていた。
「一口噛むとですね、口の中にお肉の甘みがジュワーっと広がるんですよ」
「うわぁ!食べてみたい!」
「一度塗るだけで、きれいになるだけじゃないんです!車体に汚れが付きにくくなるんです!」
「へぇ、一度塗るだけでいいんですか!めっちゃお得ですね」
こんな風に様々な商品の情報を聞いているうちに「耳から情報を得る」ということに娘が慣れてきたのを感じた。
「また音波歯ブラシだよ」
「今日は除菌スプレーらしいよ」
と私に教えてくれるようになってきた。
娘に、テレビとは違って売ってるものが見えないのにどうしてラジオショッピングを楽しいと思うのか聞いてみた。
「どんな物かなって想像できるから」
という答えが返ってきた。
「あとね…」
「なになに?」
「どういうパッケージなんだろうとかも考えるんだよ!」
中身だけじゃなくて、パッケージまでイメージが膨らむとは思っていなかった。
耳から入った音の情報が、頭の中で映像に変わっていたのだ。
目が見えない人は、特別優れた聴力を持っていると思われることが多いが、そんな人ばかりではない。
見る力の代わりに聞く力を使うようになり、聞く力がどんどん育っていくのだ。
音の洪水だったものが、意味のある情報として頭の中に残っていく。
これは視覚に障害のある人だけではないということが、娘を見ていて分かった。
今まで使っていなかっただけで、聞く力は眠っていただけだったのだ。
そこに想像する力が加わってイメージが膨らんでいく。
ラジオショッピングを楽しそうに聞いている娘を見ていて思い出したことがある。
映画「かもめ食堂」を友人と観に行ったときのことだ。
この作品は、フィンランドのヘルシンキで日本食堂を営んでいる女性が主人公のストーリーだ。
料理をしているシーンがたくさん出てくる。
料理のシーンでは、音がクローズアップされていた。
BGMも台詞もなく、聞こえてくるのは料理をするときの音だけ。
コーヒーをドリップするポタポタという音。
鮭を焼くときに油が落ちるパチパチという音。
おにぎりを握るギュッギュという音。
静かな劇場に響いた音から、美味しそうなにおいまで漂ってきそうな気がした。
映画が終わった後、隣にいた見える友人が
「こんなに料理に音があるなんて思わなかった」
と言っていたことを思い出した。
音から想像して商品を選んだり、料理の味を思い浮かべたり。
音が彩る想像力は、生活にワクワクを運んでくれる。
目で見る以外の楽しみ方を改めて感じた出来事だった。
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