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正田ミテコさんの育ちの悪さを検証してみる②

前回はミテコさまのエレガントとは程遠いアチャー🤦‍♀️な部分をご紹介しましたが、今回はミテコさまの幼少期のエピソードからどうしたらあんな嫉妬深いサイコパスな性格になったのかを検証してしましょう。

前回の記事はこちら⬇️⬇️

川嶋キーコさんの人格形成については他の皇室ウォッチャーの方々が深掘りしているのでご存知の方も多いですが、正田ミテコさんはミテコセブン等の美談記事からの断片的な情報しか無いので「深窓の令嬢」イメージを抱いている層が多いですが、疎開時代の体験談を読むとスケバン魂が駄々漏れのアタオカ娘だった模様。以下ガルちゃんスレより

昔、群馬の知人から聴いた話を思い出した。

知人の伯母さんが美智子さんと同じ小学校に疎開してた時、まるで女王様のようにキツい性格で周りを従えていたとか。

当然気に入らない子は虐めたのだろうけど、伯母さんは多くを語らず。気が強くないと皇室ではやっていかれないだろうし…と言葉少な。


お嬢様でわがままいっぱいに育って意地悪に仕上がったら婆さんになっても治らないんだね。普通は年齢とともに一歩ずつ下がっていって子供が大人になっていくのを見守って行くんだろうけど、いつまでも自分が一番前じゃないと気が済まない。アホウとしか言えない。

その性格顔に全部出てるけど。

小学校の時、戦争疎開で転校した先で、早速、女生徒達を扇動して、クラスで一番かわいくて人気のある女の子を苛めさせたんだよ。

ミテコの結婚式のとき、地元群馬の小学校時代のエピソードで元級友の女性がコメントしてたそうです。

虐めがバレてみんなが先生に叱られているのを、首謀者のミテコは「知らん顔」して眺めていたそうです。

結婚式の時って、庶民でも、アゲアゲエピソード言うのに皇太子妃にそれって よっぽどのことね😦

昔、河原敏明(鬼畜リスト)著書の皇室本で読んだんですが、子供時代の美智子が疎開先で気に入らない女子児童と互いの顔に血が滲むまで殴り合いしたとかエピソード思い出しました。

「流血する位の殴り合いの喧嘩」「クラス一番の可愛い子を苛めておきながら先生の前ではちんまりおすまし」「女王様気取りで同級生を従える」など見ると「専属デザイナーやお針子さんにミリ単位の意味のない修正のご命令の連発」「優秀で優しい長男嫁を自●寸前になるまで(自分の手を汚さず)にイビリ倒す」等のエピソードに繋がりますよね😱😱😱

意外と素っ気ない母子関係

これらのエピソードを照らし合わせるとミテコさんは養育環境に欠陥があるのではって思いませんか?

もちろん3DKの社宅住まいの超庶民の川嶋家よりは経済的に恵まれていたでしょうが、正田さん時代のミテコさんの写真を見ると何か愛情に欠落してると思われる仕草なんですよ。

それを裏付けるのが結婚直前の家族写真。

超有名なミテコさま結婚直前の家族写真。

富美子オカンが家の中でも草履、妹さんだけ床の上に足投げ出して座ってる等他にも突っ込みどころ満載ですが、何だか家族同士何処かよそよそしく感じませんか?

特に富美子オカンなんか完全にソッポ向いてるし😱😱😱

後に義宮正仁親王のお妃に内定した津軽華子さんの家族写真と比較するとその差は歴然。

現地点で最後の旧華族出身の妃殿下である華子さまの家族写真。

入内後も実家べったりだったエピソードから仲が良さそうなイメージがありますが、実際には余り富美子オカンに可愛がられていないのでは?って疑問が沸いてきますがそれを裏付ける話も。

ミテっ子クラブの新エース渡辺満子ちゃんの記事より

戦時中は、日清製粉を経営する父・英三郎氏と、長男・巌さんは東京に残り、母・富美子さんは正田家の舅、姑をも疎開先で守り抜きました。館林から軽井沢へと一緒に疎開していた叔母と従姉妹が、その父を東京大空襲で失い、母一人娘一人になった悲しみを察して、富美子さんは、自分の子供たちへの愛情表現をとみに控えるようになったそうです

出た❗️正田家名物「アタイ遠慮してんだよ」演技、これも川嶋キーコさんが受け継ぎましたね。

本当にシングルマザーになった叔母や従姉妹を思うなら家族ぐるみで触れ合えば良いのに。ただ単に娘を構わなかった事に対する言い訳でしょうに(笑)

父親の野心に翻弄された少女期

他にもミテコさんの歪な人格形成の要因とされるのが英三郎オトンの存在。

今でこそ日清製粉は日本有数の大企業ですが、戦前の正田家はそれ程の名家ではありませんでした。

実際戦前は群馬県の高額納税者番付の上位にすら入っていません。これは明治初期から高額納税者に名を連ねた信子さまの実家麻生家や、久子さまの実家の鳥取家と比べても格段にランク落ち。

正田家が勢力を拡大していったのは戦後になってから。GHQの政策でアメリカの小麦輸入で財をなしました。

新興企業の英三郎氏が次に考えたのが、娘を名家に嫁がせて更にその勢力基盤を強固にしようとする事。

その取っ掛かりが「竹山パーティー」への入会。

「竹山パーティー」とは建築学者・竹山謙三郎氏が「若い人達に自宅を解放し、お話しや音楽会等を開く」という趣旨の今でいうお見合いサークルでした。ちなみにミテコさんは以前から竹山夫妻と知り合いだった縁で昭和26年の創設当初から参加。ミテコさん16~17歳。

しかし当時のミテコさんは「親の言いなりで純潔守るなんてダサいわ!アタイは好きな事して生きるんだ‼️」と御徒町界隈でブイブイ言わせてた人。

ミテコさんは、元々ヤンキーぽかったよ。

闇市が近い御徒町に遊びに行き、高校からピアスの穴を開け、お酒の出るお見合いダンスパーティーに通い、学校で発展家と呼ばれ、大学では制服を改造し、車に箱乗りになってたり。

キーコさんも無理にお嬢様を気取ってたけど、実際は気が強いし、どことなくヤンキーぽかった。

当然相手の男性だって得体の知れないア●ズレを相手にするわけがなく、お見合い25戦全敗。最終的にちょっとゆっくりな性格の明仁皇太子の嫁の座に。

日本一高貴なお家に嫁いでからは無理やり蚊の鳴くようなスローなベシャリで深窓の令嬢を装ってみたものの、御徒町魂はそう簡単には抜けないもの。さりげない所で玄人臭さが駄々漏れ。⬇️の写真なんか銀座のクラブのママとママに無理やり連れてこられた名家のお嬢様って感じ(笑)

まだミッチーブームの余韻のあった頃。華子さまの若奥様ぶりと比べるとミテコさまの雰囲気が異質かわかりますね。

その御徒町魂は皇后になってから更にエスカレートし、皇室の秩序を破壊していくのです。😱😱😱

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