【山梨県立文学館】特設展「それぞれの源氏物語」を見に行く
はじめに
山梨県立文学館では、10月の終わりより新たな特設展「それぞれの源氏物語」(2023.10.28~12.17)が始まりました。2024年の大河ドラマ「光る君へ」の主人公は『源氏物語』の作者である紫式部です。一年を通じ話題になりそうな『源氏物語』の先取りともいえる展示です。ただし、本展は「それぞれの」というとおり、これまで多くの作家が取り組んだ、現代語訳に焦点をあて、物語の魅力に迫ろうという内容です。
イチョウ並木と紅葉
訪問時、文学館のある芸術の森公園はイチョウ並木を始め、紅葉が進んでおり、目を楽しませてもらいました。その時の模様も紹介しております。
それぞれ源氏物語
世界最古の長編小説ともいわれる『源氏物語』です。展示は作家ごとに『源氏物語』との関わりや現代語訳作品を紹介していくもので、紅葉の時期であったことや、『源氏物語』の知名度などから、ふだんより文学館の入館者は多いと感じました。
展示室内の撮影は出来ません。可能な限り、図録などから出典を上げ紹介いたします。また、筆者は『源氏物語』を通読したことはありません。現代語訳も含め、作品の内容については図録や解説文に依ることをご承知ください。
読んでいなくても古典作品として何か宮廷世界の雰囲気を持ち、惹かれるものがあるのが『源氏物語』ではないでしょうか。
源氏物語
『源氏物語』は、紫式部(生没年不詳)により平安中期に書かれたとされ、江戸時代初期まで写本により広まり、その後は印刷本により広まりました。原本と分かるものは残っていません。
展示では、国宝《源氏物語絵巻》より2場面をパネルにて紹介しています。《源氏物語絵巻》は源氏物語が世に出てより、150年後の平安末期に絵巻物として描かれたものであり、いわば二次創作です。こうした二次創作が行われるほど、物語は世に広まっていました。現存するものは全体の一部であり、徳川美術館と五島美術館所蔵しています。
続いて、『源氏物語』三部54帖の構成についての紹介があります。
第一部、第二部は光源氏が主人公で、第三部のみ光源氏の息子(薫君)が主人公となっています。
第一部 (1.桐壺~33.藤裏葉)
第二部 (34.若菜 上~41.幻)
「雲隠」の帖は名前のみで本文が現存していません。
第三部 (42.匂宮~54.夢浮橋)
源氏死後を描いており、光源氏の息子(薫君)が主人公です。後半の45.橋姫から54.夢浮橋までを「宇治十帖」といいます。
樋口一葉
まずは、樋口一葉(1872年~1896年、明治5年~明治29年)と『源氏物語』の関わりです。一葉の両親は甲州市塩山の出身で、一葉自身は山梨を訪れたことはないものの、山梨にゆかりの作家としてよく取り上げられます。
一葉は14歳の時に、歌人中島歌子の主宰する「萩の舎」に入門しています。その後、中島歌子に代わり『源氏物語』を講義することがあったといいます。
「萩の舎」入門や歌人としての一葉に焦点をあてた過去の企画展はこちらをご覧ください。
展示には、北村季吟『湖月抄』があります。『源氏物語』の注釈書ですが、一葉が使用していたものです。
『源氏物語』といった宮廷文学は一葉の初期の作品に影響を与えているといいます。
また、一葉の随筆として『さをのしづく』では、紫式部と清少納言を比較や和歌についてと自身の考えが記されています。
窪田空穂
窪田空穂(1877年~1967年、明治10年~昭和42年)は、歌人で国文学者です。
古典の研究に精力的で『源氏物語』の現代語訳は『源氏物語』上・下(『現代語訳国文学全集』第4巻、非凡閣1936、第6巻、非凡閣1938)を刊行しています。ちなみに『源氏物語』中(『現代語訳国文学全集』第5巻)については与謝野晶子が担当しています。
その後、文庫版として『現代語訳源氏物語』全8巻、改造社1939を刊行し、戦後になり文庫版に加筆し全54帖の完全版となる『完訳 源氏物語』全8巻、改造社1947~1949を刊行しています。
与謝野晶子
与謝野晶子(1878年~1942年、明治11年~昭和17年)は、2度『源氏物語』の現代語訳をしています。
1度目の現代語訳である『新訳源氏物語』は、1912年(明治45年)から1913年(大正2年)にかけて「新訳源氏物語」上巻、中巻、下巻一、下巻二の4巻として出版されました。のちに縮刷版のほか、合本などいろいろな版で出版されています。抄訳であるものの初の現代語訳と言われていて、ほかの作家たちにも影響を与えています。
こちらは縮刷版全4巻のうちの第1巻です。
さらに、こちらは 縮刷版4冊を上下巻にした合本です。
2度目の現代語訳は『新新訳源氏物語』は、晶子の晩年の作です。1938年~1939年(昭和13年~14年)にかけて6巻で出版されました。全54帖の完全版です。実は、その前にも現代語訳(『源氏物語講義』)の出版の用意をしていたようですが、関東大震災により原稿を焼失したといいます。
さらに《源氏物語礼賛》という巻子の歌集があります。各帖にちなむ歌を詠んだもので、山梨県富士川町の酒蔵、萬屋酒造店の寄託資料です。
萬屋酒造は与謝野鉄幹・晶子夫妻と交流があったことで有名で、酒名の「春鶯囀」は神楽の曲名といいますが、夫妻が宿泊の折りに晶子の詠んだ歌「法隆寺などゆく如し甲斐の御酒春鶯囀のかもさるゝ蔵」にちなみます。
川崎小虎
展示には、語訳作品だけではなく日本画もあります。
川崎小虎(1886年~1877年、明治19年~昭和52年)の日本画家です。祖父である川﨑千虎に大和絵を学びます。山梨との関わりは、1944年(昭和19年)から落合村(南アルプス市の一部)に疎開しています。小虎の長女の夫が東山魁夷で、魁夷も一時期、落合村に疎開しています。
川崎小虎の《紫式部》1960、《光源氏》1960が展示されています。画像は用意できませんでした。
谷崎潤一郎
谷崎潤一郎(1886年~1965年、明治19年~昭和40年)は、3度現代語訳を出しています。
古い順に、
『潤一郎訳源氏物語』全26巻(1939年~1941年)
『潤一郎新訳源氏物語』全12巻(1951年~1954年)
『潤一郎新々訳源氏物語』全10巻+別巻(1964年~1965年)となります。
さて、1回目(潤一郎訳、旧訳とも)は戦前で、2回目3回目(新訳、新々訳)は戦後になっています。いずれも刊行当時からベストセラーになったといいます。旧訳は、与謝野晶子の完全版とほぼ同時期であり、戦争の影響で当局からの規制を逃れるため、削除している部分なががあるといいます。
展示には、奥書の原稿があります。『潤一郎訳源氏物語』第26巻の奥書のもので、全26巻刊行期間が延びたこと、現代語訳にあたり削除した場面があることなどが述べられています。
展示されている『潤一郎訳源氏物語』はひと箱に2冊ずつ納められた普及版です。
続いて、戦後になり全面的に改稿された新訳版の『潤一郎新訳源氏物語』全12巻です。
旧仮名遣いから新仮名遣いに改めて改稿したものが3度目となる『潤一郎新々訳源氏物語』全10巻+別巻になります。
また、展示には芥川龍之介の「文芸的な、余りに文芸的な」の草稿があります。これは、1927年(昭和2年)、谷崎潤一郎と芥川龍之介の間で「小説の筋の芸術性」をめぐりる論争であり、芥川が雑誌「改造」に連載したものです。芥川は古典について「『源氏物語』実際に読んでいるのは明石敏夫と谷崎ばかり
だ」と書いています。
円地文子
円地文子(1905年~1986年、明治38年~昭和61年)は、幼少の頃より『源氏物語』に親しんでおり、60代になってより、現代語訳を始め、全10巻を刊行しています。あとがきには「現代の読者に気難しくないようように」との気持ちで書いた旨が述べられています。
また、全54帖の完訳のかたわらに書き留めた、物語への想いや着眼などをまとめた『源氏物語私見』も刊行してます。
瀬戸内寂聴
瀬戸内寂聴(1922年~2021年、大正11年~令和3年)も『現代語訳源氏物語』全10巻を1996年~1998年(平成8年~平成10年)にかけて刊行しています。もともと『源氏物語』に関する著作も多く、人気作家による新たな現代語訳版の刊行は話題となりました。
田辺聖子
田辺聖子(1928年~2019年、昭和3年~令和元年)の『新源氏物語』も人気作家による現代語訳です。『新源氏物語』として冒頭部分から「幻」まで全5巻(1978~79年)として刊行しました。
さらに、『新源氏物語 霧ふかき宇治の恋』(1990年)を加え54帖の完全版としました。
全訳であるものの、原典に無い記述や反対に外した記述などもあり、また、冒頭の「桐壺」の帖からではなく第3帖の「空蝉の巻」から始まるなどの特徴があります。
林望
林望(1949年~、昭和24年~)は、全54帖の『謹訳源氏物語』を刊行し、その後、文庫版「謹訳源氏物語改訂新修版」を再刊しています。
謹訳という聞き慣れない題名について、訳者は以下のように述べています。
『謹訳 源氏物語 私抄―味わいつくす十三の視点』祥伝社2014、として、読み方のヒントをまとめたものを刊行し、その後『源氏物語の楽しみたか』祥伝社2020、として書名を変更し再刊されています。
林真理子
林真理子(1954年~、昭和29年~)は、山梨市の出身です。完訳はありませんが、恋愛小説として再構成したり新解釈を加えるなど、人気作家の独自の『源氏物語』を世に送り出しています。
『六条御息所源氏がたり』全三巻、小学館2010~2012では、登場人物の一人である六条御息所の語りにして物語を再構成して長編恋愛小説にしています。
また『STORY OF UJI 小説源氏物語』は、第三部の後半である「宇治十帖」をもとに独自の解釈と創作も加え、薫と匂宮と彼らに翻弄される女性たちとの関係を描き連載時より話題になったといいます。
以前にも別の展示で林真理子氏の原稿を見たのですが、原稿はすべて原稿用紙に手書きであることに意外性を感じました。
そのほかの源氏物語作品
さらにいろいろな形式の『源氏物語』が紹介されています。橋本治『窯変 源氏物語』全14巻(1991年~1993年)がありましたが、橋本治は『桃尻語訳 枕草子』(1987年~1988年)など古典の現代訳に取り組むなど、独特の世界観と多才さから作り出す作家さんだと思います。
また、英訳版として、エドワード・G・サインステッカー(1921~2007)の「THE TALE OF GENJI」は、海外の文学者では初めて訳したアーサーウィリードに次いで2度目の英訳になります。
コミック作品として大和和紀『あさきゆめみし』全13巻も紹介されています。
おわりに
作家ごとに捉え方や表現手法の異なる、まさにそれぞれの『源氏物語』を知ることが出来る展示でした。
ミュージアムショップでは『源氏物語』関連書籍の一画が作られています。図書室でも関連書籍を手に取ることができます。
展開の面白さか、原典に忠実かなど特徴がそれぞれあり、手に取るだけで文学館をあとにしてしまいました。
参考文献
図録『それぞれの源氏物がり 』山梨県立文学館、2023