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映画『どうすればよかったか?』を観て

付き合いで観に行くことになったこの映画。精神疾患には興味もあるし、一緒に行った人にとっては身内の課題でもある。ザックリ内容をいうと監督によるドキュメンタリーで、統合失調症と思われる姉を中心とした家族の25年以上にわたる様子を記録したもの。

シンプルな感想

私の観劇後の最初の感想は「人は好きなようにしか観ないし、好きなようにしかしないな」という、いつも通りの俯瞰した視点のものであった。揺さぶられる部分としては、同行した人が感じ入っているかな、というフィルターが起こすものがほとんど。ダイレクトなものとしては冒頭の生々しく荒々しい音声に「こわい」という気持ちになった。もともとかなりのビビリである。大きな音にもビビる。お姉さんの発症原因は感覚過敏(情報量多い)+『使える』脳と神経をフルに使った先の燃え尽きなのではないだろうか。燃え尽きるに十分な環境だった(主に親という存在)というのも大きいかと。あくまで感想です。

私の主観による大いなる偏見と感情

個人的考察としては。研究者とか教師とかそういう人に多い、『正解はこれ』という凝り固まった『一神教』みたいな性質の人が、精神病と縁が深いように見ている。頭が固く、自らの専門に疑問を向けることがなく、正解というものがあると信じ込んでいる。その他のジャンルへ関わる要素が薄く、専門以外での喜びや発見や理不尽さとか不確定要素とかの経験があまりない。ど偏見だけど、「人は好きなようにしか観ないし、好きなようにしかしないな」に該当する『人』の1人なのだ、私も。主観を通さずして世界を見れる人などいない。ひとりひとり好きなように観ている。実際教師や医者の家庭に精神疾患は多い。またか、というくらい多い。

正解があると思い込んでいる人は、息苦しい空気を作る。苦手だ。さも正しそうな顔をして、善良で在ろうとしながら、実際善良ではあるのだが、善良な顔で人の呼吸を苦しくすることができる。タチが悪い。何か悪いことをされているわけではないからこそ、息が苦しい原因も分からずに、家族や当人が病に落ちていく。正解は本来、個々で違うのだ。他者の正解を押し付けられて生きていては、息が詰まって病になるのは当然だと思うが、一神教を信じる人にその気づきは起きない。専門職ほど自らの学んできたことを疑ってみる視点を持つべきだと、自身にも言い聞かせている(私の専門はグラフィックデザインだよ)。

ちょっと物言いが辛辣になるのは、腹が立っているからだと思う。子どもや病に落ちている人は、自身の身の置き所を選べない。その人たちが、人としての尊厳を(自身の正解で生きられないこと、心身の扱いが大切にされていないことなど)守られていないその『状態』に、腹がたつのだ。誰が悪いと言っているのではなく、状態が腹立たしい。無自覚に自由な呼吸を奪っている者たちからは、ただ離れられるようにすれば良いだけだ。彼らはただ、人を息苦しくする能力があるだけだから。能力は人それぞれだから仕方ない。『離れる』一択。

状況を俯瞰する者のエゴ

少し私の感情の部分を書いたが、私は自閉症スペクトラムである性質からか、基本的に俯瞰意識が強い。なので感情よりも状況を観る。自身も感情に引っ張られにくいし、他者に対しても感情よりもまず状況を観測する。そのまま進めば進行方向にある穴に順当に落ちるだろう、と状況を冷静に観ている。一方で横に避けたら穴には落ちないよ、という状況も観ている。ただ人間は感情の生き物だ。冷静に状況なんか考えたりしない。感情や無意識からの反射で行動を選択していく。好きなようにしかしない。謎の正しさに従うために、冷静風を装いながら、感情をも殺していく。私は「穴に落ちないほうが得策だよな」と思いつつも、人は冷静さを選択しないことも分かっているし、それで良いのだとも思っている。私なら穴には落ちたくないが、他者が同じとは限らない。穴に落ちて欲しくないというエゴを押し付けるなんてこともできない。

死ぬときに後悔しない選択をする

身内に〔存分に手をかけられない〕病の人がいる人に対して言えるのは、「あなたが後悔しない選択を」ということくらいだ。もし明確な目標があるならば、もう少し言えることはある。穴に落ちたくないならば、言えることがある。聞かれれば答えるが、耳を貸せるような人が身内にいるならば、病は起こらないと思う。当事者に動く気があれば(子どもなら8歳くらいを超え意思を主張できるようになっていれば)乗り越えられる可能性が割とあるように思う。その辺りは鬱病に関して書いた記事を読んでほしい。『死ぬときに後悔しない選択をする』これは、全ての人に言える。家人に病の人がいる人以外でも。それ以外に本人にとっての正解など存在していないのだから。〔存分に手をかけられない〕のが多くの人だ。仕方のないことだと思う。皆自分自身の人生がある。同時に〔諦めを受け入れなければならないこと〕も、仕方ないことだと言える。でももし本当に大切な人ならば、存分に手をかけて諦めない選択もあることを知っていて欲しい。それを選択できない自分を責める必要もない。後悔するかしないかが、選択する際の判断基準だ。

感想は伝えよう

エゴを押し付けるなんてこともできないと書いたが、ただ『感想』をいうことは得策だ。正しさやアドバイスなんて聞かれることはない。でも感想は押し付けではない上に、相手の感情に届きやすい。「私は嫌だね。息のしづらい環境にいるのも、そのせいで人が病むのも嫌だよ。さらに尊厳も守られていないなんて、めっちゃ腹たつわ!息のしづらい人なんて作りたくないんだよ!暴れてえ!」という私の感想をここに置いておく。誰も責めていない。ただ、嫌なんだ(「ダメを言わず、イヤを言う」は私が主催する『天才合宿』の基本理念だ)。劇中でも親戚のおばちゃんが、苦しんで頑張っている当事者を前には何も言えない、みたいなことを話していたが、人はそういうものなんだろう。自分より大変な人に言える言葉なんてない。そんな時は是非、感想を伝えよう。ほんのひとしずく、相手の心にそれが落ちれば上等なのだ。そのひとしずくも無いと、謎の正しさに支配されたまま微動だにできなくなっていく。嫌だなぁ。

まとめ

「人は好きなようにしか観ないし、好きなようにしかしないな」というある種の諦めを持った上で、
『死ぬときに後悔しない選択をする』
『感想は伝えよう』
この二つをしていくのが『どうすればよかったか?』という問いに対する私のアンサーだ。
そうしながら私は、一緒に行った人の手を温めるのだ。


ありがとう。
いい映画でした。


蠟梅が香っていたよ

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