「容疑者Xの献身」には、隠された続編があるというお話
東野圭吾のヒット作は数あれど、一般的な認知度が一番高いのは、個人的には「ガリレオシリーズ」ではないかと思っている。
小説を読まない人たちにとっても、福山雅治が主人公・湯川学を演じたドラマ版は、切れのあるBGMや「実に面白い」の名台詞でお馴染みだろう。
そんなガリレオシリーズでも群を抜いて有名なのが、「容疑者Xの献身」である。
作中のトリックの斬新さもさることながら、湯川に匹敵する天才数学者・石神の存在も、本作の根強い人気を支える要因になっていると思われる。
このnoteを読んでみようと思った方々には、今さら説明するまでもないほどの、名作中の名作である。
しかし、そんな「容疑者Xの献身」に、隠された続編が存在する、と言ったら、皆さんはどう思うだろうか。
これは公式に明言されているわけでもなく、登場人物も異なるため一見分かりにくくなったいる。
しかしその物語は、「容疑者Xの献身」で残された禍根を見事に払拭し、バッドエンドとなってしまった本作を、救いのある結末へと導く役目を果たしている。
もちろん続編なのだから、作者は東野圭吾である。
おそらく、そんなものはない! お前の妄想だ! と思う方が大半だろう。しかしそう思う方こそ、以降で解説する内容を読んでほしい。そして、ぜひもう一度「容疑者Xの献身」とその物語を読み返してみてほしい。
より深い感動を味わうことができると確信している。
その物語の名は、「真夏の方程式」という。
*注意!
これ以降は、「容疑者Xの献身」及び「真夏の方程式」のネタバレを多分に含んだ内容になっています。
上記の2冊の書籍を読み、内容を把握した上で読み進めていただくことを、強く強くおすすめ致します。
さて、いきなり何を当たり前のことを言ってるんだ、と思われた方も多いと思う。
ご存知の通り、「真夏の方程式」はガリレオシリーズ6番目の作品であり、扱う事件こそ異なるものの、シリーズ3作目の「容疑者Xの献身」の正統な続編である。
何も隠されていないし、何なら映画化までされている。
しかし、私が言いたいのはそんなことではない。
「真夏の方程式」はただガリレオシリーズの続編というだけでなく、「容疑者Xの献身」と対になった、むしろ半身とも呼ぶべき物語だ、と言いたいのである。
このことを理解していただくためには、まず「容疑者Xの献身」が残した禍根について説明する必要があるだろう。少し長くなるが、お付き合いいただきたい。
「容疑者Xの献身」が残した禍根
「容疑者Xの献身」の素晴らしさは、まず第一に犯人である石神が使ったトリックにある。
読者である私達は、時には湯川、時には草薙刑事、あるいは石神と共犯関係である花岡靖子の視点で物語を読み進めていくことになるが、何故かあと一歩のところでアリバイを崩すことができない。
ここが秀逸なのは、犯行を疑われている花岡靖子自身ですら、なぜ警察が自分のアリバイを崩せないのか分からないということだ。
物語のラストで石神のトリックが明かされることになるが、おそらくミステリー小説をよく読んでいた人ほど、このトリックには意表を突かれたのではないかと思う。
ここで使われたような、読み手の常識の裏をかくトリックこそ、東野圭吾の醍醐味だと思うのだが、皆さんはいかがだろうか。
かくして物語を読み進めた私達は、題名にある「献身」の本当の意味を知り、石神の覚悟の深さに胸を打たれるのである……。
と、ここまではいい。ここで終わるのであれば、私も声を大にして、文句なく至高のミステリだと言うだろう。
しかし、物語はここでは終わらない。
石神のトリックを覆すことが出来ないと悟った湯川と草薙は、あろうことか石神が人生を賭けて守ろうとした花岡靖子にすべての顛末をぶちまけ、(判断は本人に任せたとはいえ)自首させてしまうのである。
自分がやってきたことの意味が無くなったことを知った石神は咆哮しながら泣き崩れ、そこで物語は完結する。
当時を思い返してみても、このラストには唖然とした記憶がある。
あまりにも悲劇的だったから、ではない。
最後に湯川がやったことは、はっきり言って、ただの負け惜しみだったからである。
湯川が警察関係者ならまだ分からないでもない。犯罪を犯したものを捕まえ、裁きを法に委ねるのが彼らの役目だから、理解できる部分はある。
しかし湯川が警察に協力するのは、あくまで好奇心をくすぐられたからという設定であり、花岡靖子のように、罪を犯さざるをえなかった、弱い立場の人間を追い詰めるためではなかったはずだ。
本来傍観者である湯川がここで取るべきだった行動とは、負けを認め警察に任せる、であるのが(湯川の性格からしても)自然だと考えられる。
が、おそらくこういう展開になったのには別の理由がある。それについては後述する。
しかも、この話はここで終わらない。
もっと本質的な問題が残っているのである。
そもそもこの事件は、靖子が自首したところで何もいい方向に向かわない。
なぜなら、靖子の娘である、花岡美里の存在がすっぽりと抜け落ちているからである。
ここで少し想像してほしいのだが、靖子は自分の娘である美里を伴って自首したのだろうか?
冨樫を殺害したのは、靖子と美里の二人である。
一緒に罪を償うということなら、美里と二人で自首することになりそうなものだが、ラストの描写には一切美里は出てこない。
つまり靖子は、娘が共犯であることは黙ったままで、自分一人で自首してきた、と考えるほうが自然なのである。
娘を愛する母親としては当然の行動のように思えるが、実はこれは非常に酷な選択だ。
なぜなら作中の花岡母娘は、頼れる人間がいなかったからこそ富樫から隠れるように二人で暮らしていたのであり、靖子が刑務所に入ってしまえば、まだ中学生である美里は一人で生きていかねばならなくなる。
しかも、人を殺した、という秘密を背負ってである。
これこそが、「容疑者Xの献身」における最大の悲劇であり、湯川が靖子に真実を話したことで残ってしまった禍根なのだ。
ところで、実は私達は、この美里と同じ境遇で過ごしてきた、ある女性のことを知っている。
思い出してほしい。
その女性の名は、川畑成実という。
「真夏の方程式」で湯川の前に現れた、環境保護活動を行っている女性の名前である。
最初に私が、「真夏の方程式」が「容疑者Xの献身」の半身だ、と言った意味はここに帰結する。
成実は美里であり、もっと言えば恭平でもある。
ここを理解すれば、「真夏の方程式」を読んだときに多くの方が抱いたであろう違和感の正体を、解明することができる。
ここからは、「真夏の方程式」に込められた真のメッセージについて、解説していこう。
………後編へ続く。
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