地獄のこころは利己中心
吾等は天地の創り主を信じ、これに絶えざる感謝と祈願とをささぐることによりて、まことの幸福へみちびかるることを知る。
吾らは八百万の神々を信じ、これに敬礼す。
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死後、越しの存続の有無による現世生活上信念の相違について一言すれば、これを無しとする人は、
一、物質的となり、他に知られざる範囲で自利を行ない、成功をいそぎ、安心なし。
一、一切は死によりて帳消しとなる結果、最後のドタン場となればみな自殺す。
一、神社、仏閣、墓地などは、要するに飾り物にすぎぬこととなる。
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地獄にもいろいろあるから、簡単にいうことは無論できぬが、一般に通じて、万事が消極的である。栄え、喜び、朗かさ、感恩、柔順、無邪気、活発等に反することのみが行われている所である。これは要するに、地獄の心はいずれも利己中心であるからである。
この現界もまた、時としては地獄の映写であるから、現界人の心も知らずしらず地獄的である時もある。それで現界人としては、つねに直日の魂(良心)に省みて他を恨んだり、そねんだり、侮ったりすることは絶対に悪いと覚悟して、つとめてこうした想念を排除するよう懸命に意志を練らねばならない。地獄からの霊線がかかている時には、よほど省みておらぬと、知らずしらず地獄的の気持になりきってしまっていて、気がつかぬ場合がある。
地獄的の気持になることは、自己に業因のある場合はいたし方がないが、なりきってしまうことは自己を地獄的に染着してしまうことになるので、容易に浮かび上がられなくなる。
つねに心がけて、自分で悪いと思い、汚いと思い、卑怯と感じ、地獄的と思惟する想念と勇敢に決然と力闘する習慣をつけねば、いつ迄たってもその境涯を脱することができなくなってしまう。
他を恨み、ねたみ、あなどる心、すぐに気を悪くまわすこと、これらはことごとく利己心より発するもので、地獄所属の想念であって、どんなに自己弁解し、自分だけの理由があってもダメである。
概して、他を悪く思うのは、自分に相応の悪いところがあるからである。
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恨み、そねみ、ねたみ、侮ることは絶対によくない。
吾とわが心と、いつも懸命の相撲をとっていなければいけない。
『信仰覚書』第六巻、地獄のこころ