見出し画像

【人生ノート 268ページ】心がシンプル(単純)であれば世界もシンプルであり、心が複雑であれば世界も複雑である。

無限に広く複雑な世界


この世には無いものはなく、到らざるところなく、できないことはない。

要するに、心がふくれ上がって来るにしたがって世界が拡がってくるのである。意念は無限に複雑となり向上して来るし、世界もまた、それにつれて無限に複雑となり向上してくるべきものである。

心がシンプル(単純)であれば世界もシンプルであり、心が複雑であれば世界も複雑である。

この大宇宙の客観的ものそれ自身は、天之御中主神のみ心の所産であって、これらすべてを正当に観、かつ理解し得るものは天之御中主神御一人のみである。

これを、大人と赤子とにたとえて見れば、赤子には、大人の世界にある事物をことごとく観、かつ理解することは到底できなのである。おなじ大人間においても、智者と愚者との間においては、愚者は、到底、智者の世界にある事物をことごとく観、かつ理解することはできないのである。

この現世(うつしよ)は、人類中での代表者、選手たちの分担的所産(物質的にいえば)であって、この現界の事物の大部分をはっきりと観、かつ感得しうるのは、それら一部の人々のみであって、他の者は、たとえそれを見ることができても、はっきりと理解することはできない。いな、大部分の人々は、ほとんど何も知らずにおるのである。これ、すなわち、同じ現界にあっても、各人によって、住む世界は異なるのである。いわんや、現幽一切中の神霊においておやである。

自己が努力して開拓し耕作するだけ、自己の世界は拡大してゆき、豊饒となってゆくのである。

人間は無限に進歩し達悟すべきものであって、自己の得たすべては、そのまま幽界へ持ち越して行くのである。

良きを得た人は死してのち良きにおり、悪しきを得た人は死してのち悪しきにおる。これは単に、行為そのもののみについていうのではなく、学問でも思想でも技芸でも習慣でも、その他一切について、「身に得た」ものはそうなのである。

だから人は、この世においては一日といえども無駄に時を費やしてはならぬ。つねに何ものかを得ることに努力すべきである。特に精神的の悟り、すなわち、広きふかき智恵と、すべてを救い助ける慈悲とを得ることに、もっとも力をいたすべきである。その外のことは貧しくても、これだけを豊富に得てさえおれば、死後、極楽に行けることは請け合いである。

なんとなれば、人が死後、地獄へゆき極楽へ行くということは、これ全く、相応の理にもとづくおであって、おのれの心、にごり迷いておるゆえに、自然、濁り迷いの世界へ行くのであり、己れの心、清く澄み透っておれば、したがって当然、清く澄み透った世界へ吸いよせられるのである。かくの如く、その人の心の程度にしたがって、その心とまったく同じ色彩の世界へ行くまでのことである。

だから人は、現世にある間も常に直霊に省みて己れを少しでも、よりよく磨いておくべきである。

ある雛型に一度あたっておけば、本物に出会った時うろたえない。

現界は霊界の雛型であり、小児の所作は大人の仕事の雛型である。われわれは知らず知らずのうちに、いろんな雛型をさせられているのである。

『信仰覚書』第二巻 出口日出麿著

これまでのnote


いいなと思ったら応援しよう!