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【人生ノート 186ページ】 実力以上によく見てもらわんと願ったり、いまの気持ちの反対を見せようと努力したりするから苦しいのだ。

自己をかざるな


自分に何かひけめのある人は、こちらは何とも思っていないのに、自分でいろいろと案じ過ごして、その行動がなんとなく陰うつとなりやすい。

貧窮な人が富者のまえへ出ると、なんとはなしに相手を疑うような、呪うような、そして、つねに自己に対して侮蔑をあたえているかのように感じやすい。そのために両者のあいだに、いい知れぬミゾができてくるものである。

優者はつねに劣級の者を侮蔑するときまったものではないのであるが、劣級者の常として、優越者に接すると、すぐにこの心配をはじめ、ひいては自己をのろい世を呪うごとき態度にでたがるものである。

誰だって、完全無欠のものはないのであるから、一生の中には、多少の失敗や恥さらしはあるにきまっている。しかしながら、しくじった時によく省みて、以後は、この失敗は繰り返すまい、また自分が犯しただけの罪は一さい自分が背負う、そしてまた、すんだことはもうクヨクヨ思うまい、という立派な覚悟に、瞬間になりうる人と、いつ迄も「ああ悪かった、あんなことをせねばよかったに、他人があのためにいろいろと自分を悪くいうだろう。なるべく大勢の人には知れずにすめばよいがナ、乙君の自分に対する態度が、なんとなくよそよそしくなっったのは、あのことを、誰からか聞いてからではあるまいか。C君は自分の今度のことを、あちこちへ言いふらしているのではあるまいか」というふうに、グジグジといつまでも男らしくない心配ばかりかさねて、われとわが身を苦しめ、ひいては、自分以外の人へも、暗いつめたい影をあたえている人とでは天地の差異である。われらは

あく迄も、前者の態度を学ぶことを心掛けねばならぬ。

人の行動がなんとなくグジグジしていて、小児のごとき晴れやかさがないのは、要するに、人まえで偽善や虚偽をおこなうからである。他人に、よりよく見てもらわんと思ったり、なんでもないことに遠慮したりして、つねに内分と外分とが矛盾しつづけているからである。

大した差しつかえのないと思うかぎり、できる限り自分を偽らずにさらけ出しさえしたらよいのだ。

おテンバはおテンバの如くふるまえばよい。無口の人は無口の人のごとく、病人は病人のごとく、智者は智者のごとく、愚者は愚者のごとく、おのおの、そお真に持っているだけをさらけ出したらそれでよいのだ。

要するに、最大限度に、自分のしたいようにしたらよいのだ。

他人の自己に対する言動を、ことさらに悪く解する癖は悪いことだ。自分を慎むということはせずに、他人が自分を悪く思わんことをのみ気にしているのだからやりきれない。

世の中の人々が、もう少しお互いに好意をもち合い、晴れやかな寛大な気持ちでつき合ったらとは誰でも思うことであるが、さて、厳密に、日常の自己を内省してみよ、いかに自分というものが利己一方な、狭量な陰うつなものであるかが到るところで発見しえられるであろう。

現界的貴人、高位の人に対しても、なにも、みずから恐れてかかる必要は毫もないし、また、みすぼらしいみなりの人に対しても、決して、最初から軽侮の眼をもって接すべきものではない。すべて起居動作は、いかなる人に対しても、なるべく自然的たるべく、なるままに任したらよいのである。

『信仰覚書』第三巻、自己をかざるな

【これまでの振り返り】


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