【人生ノート 197ページ】 どんなことに対しても、歓喜の情をもって接すれば、かならず、相手もまたうれしくなり、ありがたくなるものである。
人の肉体心(そのときどきの人間的理知)ほどあてにならぬ頼りないものはない。人はそのときどきによって、勝手にどんなことでも思惟想像することができる。だが元来、人の思念なるものは、ことごとく霊界に根ざしているのであって、けっして、その人が勝手にそのときどきに作りあげられるものではない。ちょっと考えると、いやそうでなく、その時その時に勝手にどんなことでも思念し得るかのごとくであるが、その自己が作った思念なるものは、要するに、どこまでも自然界的単独のものであって、霊界との交渉は全然ないものである。ゆえに、なんらの力なく反響なく、淡く瞬間的に消失して惰性をのこさないものである。
たとえば、ある人がなんとなく、ふとある友人のことを心配しているときに、しいて読書しようとして机に向かっても、なるほど、外形的にはあたかも読書しているかのようであるが、内界は全然読書していないようなものである。
元来、人の思念は次から次へと霊界より流入してきて、それが人の神経を刺激して、同じく次から次へと相応の思念をなし、また、これを行動にあらわそうとするものである。それなのに、しいてこの霊界よりの流入を阻断して自ら思念を製造し、これに向かおうとしたところで、それはちょうど、河の流れをせきとめておいて、自分でその堰の外側から全く新しい水を流そうと企てるようなもので、全然不可能だというのではないが、全く自然の理に反した行動といわなければならない。
いまの世の人間は、多少なま学問をかじったり、または自己執着が強いために、霊界よりの思想の流入を純になって受け入れることをせずに、かえってこれを放棄して、自ら始祖となり支配者となり源泉となろうと焦慮している無謀な連中が実に多いのである。しかしながら、人がもし徹底的にこの自然の大道にそむこうとするならば、必然的にその人は滅亡してしまうことは明らかである。
偉大なる大自然の力には、いっさいのものは、その本質においてそむくことはできないように作られているのであるが、しかも、許された少しの自由意志にわずらわされ、やすやすと歩み得るのに、わざわざしち面倒くさく、自縄自縛的な天則違反行為をして、その罪のつぐないのために、次から次へと苦悶を続けていながら、しかもなお悟らず、ますます天意を無視し自然をないがしろにして神的順序にそむこうとしているのが現代である。
もし、このままの状態をつづけていったならば、必ずや、ついには人類は二進も三進もいかなくなって自滅してしまうのは明らかなことである。
意念が、あることに向かって集中しているときに、はじめて、インスピレーションはくるものであって、意念の散漫なときには、断じてくるものではない。
いわゆる、三昧状態に入りえた人で、はじめてそれぞれの道の奥儀を極めることができるのである。
意念があることに向かって集中するためには、いろいろの方法もあろうが、とにかく、実地にそのことに着手してみるべきであって、単に身体は楽にして頭脳ばかり働かせているのではだめだと思う。何か事に従いつつある間に、いつしか、いわゆる油が乗ってきて、しだいによりよい霊感を得るにいたるものである。しかし、形而上のことについて、求めようとして三昧に入ろうとするのはまた別である。これは単に意念の集中をある方法で試みればよいので、別に手足を動かしている必要はない。
わたしのいうのは、実務上のことは、考えてばかりいるのではだめだ。考えると同時に、手足を動かすくせをつけなければならないということなのである。
ちょっと煽った空気でも、かならず煽った力だけの仕事をして、天上天下、四方八方へ影響をあたえる。
ちょっと人間が思念したことでも、かならず思念したために発生した霊気だけは、その対象物に向かって力を及ぼさずにはおらない。
さても怖ろしい天地間の因果律である。
どんなもの、どんなことに対しても、歓喜の情をもって接すれば、かならず、相手もまたうれしくなり、ありがたくなるものである。
これに反して、見知らぬ人に対して、ちょっとのことでも嫌忌の情をもって接すれば、かならず、相手もまた自分に対して嫌忌の情を起こさないわけにはいかないものである。
一升入りへは一升はいり、一合入りへは一合はいるだけである。歓喜の情の容器へは、すなわち歓喜が通じ、悲哀の情のいれものへは、すなわち悲哀が、ちょうどその容器の大きさだけはいるだけである。
吉凶、禍福、悲喜、善悪ことごとくは、己から出たものが己に帰るだけのものである。
『生きがいの探求』、出口日出麿著