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奥ゆかしさ

自分はえらいとかアカンとか、そんなことを先入主的にちょっとでも考えていたら、それこそ愚の骨頂だ。赤子の心で、したいようにし、自然になってくるのがえらいのである。

あれやこれや考えて、物事ができるものではない。

みたまから発している霊光によって、大略、その人の品位は見ぬくことができる。この霊光は肉眼には見えなくても、心眼にはお互いに映じているはずである。

聖師さまや二代さまなどの御前へは、実のところ、われわれは恥ずかしくて出るのがいやだ。それでも、めぐりが除れきったら、まだましだろうけれども。

人からよく思われたいとか、人によく見せたいとかいう心が少しでもあってはいけない。

一升枡は一升枡、一合枡は一合枡だ。

諺に、腹八分に医者いらず、ということがある。何事でも十分のところを、八分のところで止めて控えてさえおけば、誤りもなく、却って奥床しさがあるものだ。

この奥ゆかしさというものが何事にも必要だ。ただし、これも無理をしてはいけぬ、自然でなくてはならぬ。

『信仰覚書』第八巻、奥床しさ 出口日出麿著


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