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【人生ノート 190ページ】 物事は周囲から、そうなってきたときは「勇気をふるい起こしてなせ!」という信仰である。

 私は原則として、活動主義であり、積極主義であり、体験主義である。
 物事は周囲から、そうなってきたときは「勇気をふるい起こしてなせ!」という信仰である。

 一時に一事を一心にすべきである。
 先のさきまでを思いはかることは、心に倦怠をおぼえ、清新さをうしない、心が散ってかえって効果がないものである。
 だいたいの見当はつけなければならないが、あまりもくろみすぎ考えすぎても、けっしてそのとおりにはならないものであるから、ただ、そのときそのときに一心をつくすべきである。

 数をあたれ。そのうち要領がわかる。

 いろいろ体験し、いろいろ悟った人でなくては真の腹力はない。

 理屈だけを先にまる覚えしてもなんにもならない。まず、自分で局にあたって、その度ごとに道理をのみ込むのでなくてはならない。道理と実際とを一致させなくては、真にわがものとはならない。

 時間的には、歴史を遠く見わたしてみなければならない。そして、今日までわれわれの先祖がいかに考え、どんな行動をしたかを、よくよく思いめぐらすべきである。このようにして心がゆたかになり、考えが大局的になることができる。
 この世の中はどんなものであるか、われわれ人間というものはどのようなものであるかを、つぶさに研究することがいちばんよいことである。

 できる限り思うようにさせてやることだ。多少のしくじりや損失などは、向上のためには、どんな場合にでもあることだ。そんなことをけちけちといわないことだ。生まれたての赤ん坊が、ひととおりものをおぼえ、悟るまでには、どれだけいろんな芸当をやらねばならないかということを考えてみるがよい。知っている者、悟っている者からみれば、たわいもないことのようにみえることでも、それまでになろうとして努力している者にとっては、一生懸命の仕事なのだ。青年子弟は、どうせ、考えが未熟で経験があさいから、しようとすることも、世なれた者の目からみれば、ばかげていることもあろう。けれども、彼らは、こうして、しだいに経験をつみ、考えが熟してくるのであって、どうせ一度は通らねばならない道すじなのである。
 
 神の目から見たまえば、どうせ、人間全体のやっていることは赤ん坊の芸当である。現界は神霊界の苗床なのであるから、現界でいろんなしくじりをすることは、一面、後になってひじょうに役にたつものである。
 自分と同様に他の者をみることが、いちばん間違いのもとだ。自分にはばかばかしいことも、他人には一生懸命なこともあり、自分には大切なことでも、他人にはなんでもないこともある。
 すべて、その人その者の立場になって同情してやらなければならない。

『生きがいの探求』、出口日出麿著

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【これまでの振り返り】



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