【人生ノート 207ページ】自己の諒解し得ることは、みな自己にそれだけの潜在能力ある故なり。
人の内分とは、その意志(愛よりす)想念(智よりす)に属する一切をいい、外分とは表情、言語、動作に属する一切をいう。その内分の積み重なりて形成されたるを内人といい、その外分の積みかさなりて形成されたるを外人という。霊眼で見るは内人にして、肉眼で見るは外人なり。
思うは内界にして、在るは外界なり。
思うが故に在り、在るが故に思うなり。
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現界は苗床にして、霊魂は種子なり。
いかに良質の種子なりとも、これを悪しき苗床に蒔きなば、その発育の劣悪となるや必せり。また、如何によき土壌の苗床といえども、これに良からぬ素質の種子を蒔けば、その実りの思わしからざるや必なり。
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いかに良き種子なりとも、これを紙につつんで天井にぶら下げておくのみでは、いっこう、発芽することなし。この種子に適した場所に、適した時期に、これを蒔かざるべからず。
ただし、光線、水分は決して強いてこの種子に入るにあらず。種子中に、光と水とをとり入るる力あればなり。
要するに、この種子の元来有する潜在力以上を発揮することはできぬが、また、境遇の不適のために、その全潜在力を発揮するあたわず、畸形的発育を遂げいる場合もすこぶる多し。
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光線、水分は無限であるが、この種子の抱擁し得る光線、水分は有限である。しかもこの度は、種子を異にするにしたがって異なっている。
これを人間にたとえば、世界は無限であるが、実際、自己の味わい得る世界は、要するに、自己が心内に元来有する世界に局限されているのである。
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いまの世では、あたら良き素質の霊魂を有しながら、境遇の不適のため、その潜在能力の十分の一をだに発揮するあたわず、神すなわち農夫の初期に反してとり入れられているなり。
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自己の諒解し得ることは、みな自己にそれだけの潜在能力ある故なり。
内界は種子なり。外界はこの種子をやしない培う一切のものなり。内界相応に外界をつかまえ、外界に刺激されて内界は発芽す。ゆえに人間を真に教育せんとせば、その子の思うがままに振るまわし、かつ、指導者は新奇なる刺激を、たえず、その子にあたえて、その内界を適宜に誘発することにつとめねばならぬ。これより外に教育はない。
『信仰覚書』第三巻、出口日出麿著