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【人生ノートMagazine】念うところ世界なり

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人生ノートの中から人生の生き方や日々の生活に沿ったことについてに書いてあることに焦点を当ててまとめてみました。
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#メンタル

【人生ノート 197ページ】 どんなことに対しても、歓喜の情をもって接すれば、かならず、相手もまたうれしくなり、ありがたくなるものである。

人の肉体心(そのときどきの人間的理知)ほどあてにならぬ頼りないものはない。人はそのときどきによって、勝手にどんなことでも思惟想像することができる。だが元来、人の思念なるものは、ことごとく霊界に根ざしているのであって、けっして、その人が勝手にそのときどきに作りあげられるものではない。ちょっと考えると、いやそうでなく、その時その時に勝手にどんなことでも思念し得るかのごとくであるが、その自己が作った思念なるものは、要するに、どこまでも自然界的単独のものであって、霊界との交渉は全然な

【人生ノート 196ページ】 心をゆたかに晴れやかに、温かくもつようにし、他に対して好感を与えるように心がけるべきである。

なんとなくそういう気持ちになる……ということが人間を動かしている実際だ。人はいろいろと理屈をいうが、理屈はどうにでも都合しだいにいえる。理屈を主としてはいけない。  すべては感情から発しているのだ。理屈ではない。  なんとなくそうした気持ちにさせるものは神だ。神は理屈で、または法律で人を動かしているのではない。  赤子は理屈はなにも知らないが、しかし両親をなつかしむ。理屈から生きているのでも、食べているのでも、死んでいくのでもけっしてない。ただ、なんとなく、そうした気持ち

奥ゆかしさ

自分はえらいとかアカンとか、そんなことを先入主的にちょっとでも考えていたら、それこそ愚の骨頂だ。赤子の心で、したいようにし、自然になってくるのがえらいのである。 あれやこれや考えて、物事ができるものではない。 ○ みたまから発している霊光によって、大略、その人の品位は見ぬくことができる。この霊光は肉眼には見えなくても、心眼にはお互いに映じているはずである。 聖師さまや二代さまなどの御前へは、実のところ、われわれは恥ずかしくて出るのがいやだ。それでも、めぐりが除れきった

一念三省

一念三省 ○ 万人のために為すを善といい 一人のためになすを悪という ○ 人の悪しきにあらず 己悪しきなり ○ 好意は魔界を浄化す ○ この世そのまま実相真如なり ○ 小事に執着するをやめて 大局に眼をそそぐべし ○ 知らざれば暗く 知ればまどう ○ 詞(ことば)すくなく意多かれ ○ 本体を観るべし 変体に捉わるなかれ ○ 種子は一朝一夕に変ずるものにあらず ○ すべからく第一義に還れ 『信仰覚書』第八巻 片言隻辞 出口日出麿著 こ

ひがみ根性をすてよ

われわれはあく迄も外界的の位置、身分、学識等をすっかり放れて、その場その場のうぶな赤子の心になって、 お互いに打ちとけて、それぞれ自己の本性を発揮すべきである。 すべての場合において、なんとなく言いたくなかったり、したくなかったりするような場合に、肉体心を出して、それを敢えてすることは明確に無理な言動である。肉体的には「あれは大した者でもあるまい」くらいに考えている場合でも、その人に対すると、なんとなく畏まるような遠慮な心持ちになるならば、それを敢えて裏切って、ぞんざいに

神経衰弱考察

神経衰弱は霊のしわざなり。軽度なる時は運動と美食と睡眠によりて治すべし。本人もつねに理性に省みて「自分はいま、考え方も病的なり」ということを念頭においておるべし。 歌舞音曲は凝らぬ程度においてすこぶるよろし。自分と気の合う人によりて慰めらるること大なり。華族の人たちは、病人に対してはつねに和気をもって対し、かりにも、本人をして疑いをおこさしむるが如き言語挙動あるべからず。やや重き者は、しずかなる質におらしめ、滑稽物、講談本など適宜に読ましむべし。彼等はいたって疑いぶかく、つね

失敗を苦にするな

物ごとを何時までもクヨクヨと心に持って考えてばかりいることは、心身の大毒だ。す早く、現在の自分相応に処置してゆけばよいのだ。それを、力もないくせに、いたずらに理想にのみ走って、あれこれと 何時までもひねくり回しているから苦しいのだ。「もし間違ったら」とか「これでは不完全だから」とか思って、ためらうのは悪いくせだ。事にあたったら、す早く、現在の自分の識見相応に、そのことの外郭および中核をつかんで、それに対する処置を考えるべきである。 人間は失敗するから進歩するのであって、要

臨機応変の機転

人の気持ちをよく見ぬき、これをこわさぬように微細の注意を払わねばならぬ。 人間の悲憤歓喜は、決して、これという法則的な事象によるものではなくして、まったく主観的な各人、各処、各時独特なものであるから、臨機応変に処してゆく機転がなくてはならぬ。少しのことを気にして、ひとりで腹をたてたり、疑ったり恨んだりしがちなものであるから、よくよくお互いに気をつけ合わねばならぬ。特に商人などは、お客に不快な念をあたえぬように気をつけることが最も肝要である。 「あいつ、自分をバカにしとる」

公平に自他を観る

 自分を知るためには他人を知らざるべからず。周囲の人々と自分とを仔細に比較省察してみて、はじめて自分というものがクッキリと浮き出してくるなり。自分自身に自分がはっきりと分かってくれば、めったに、めくら滅法なふるまいはなきなり。適宜な道が進めるなり。進退、そのよろしきを得るなり。でしゃ張りもしなければ、怖じ気もせぬなり。 自分を知るということは、他人を知ることなり。他人を知ることは自分を知ることなり。 ○ どう考えても、お互いに容(ゆる)し合うということよりほかに、この世

心の持ち方

自己の思いよう一つで、より苦しくもなれば、より楽しくもなり得るのである。  誰だって、より楽しくなりたいと願わないものはない。そうなるためには、まず第一条件として必要なことは、いかなる境遇に出会っても、つねに心を愉快に、はつらつと持つということである。  境遇の変転というものは、決して、自己の思うようにはゆかぬものであるけれども、この心の持ち方というものは、修養ひとつで常に可能なことである。  世の中の八九分までの人は「自分は随分苦労した」というものであるが、要するに、

真性の自己にかえって、真性の自己の道に進めよ!

 自分で自分の心をしばっている人たちが九分九厘の今の世の中である。  どうしたら、真に幸福になれるか?自分の心の心底において肯定する、いわゆる第一義の生活に驀進することである。ベストをつくして、本心のささやきに聴従すべく努力することである。  誰でも、それは欲しているのであるが、ベストのつくし方が足らないのである。  苦しむには無理をしているからである。何事によらず自分の分に安んじていればよいのに、それ以上を望むから苦しむのだ。要するに、世間的功名の執着心からはなれて、い

日日の修行へー平静な気持ちで生きてゆくことー

わたしは<現実のこと時事に複雑な世の中に生きて、にこやかな平静な気持で生きてゆくことこそ”修行”である>と思います。 いやな気持になることの多い世の中で、いつもあたたかい気持をもちつづける努力こそ”行”というものだとおもいます。 ーー満員列車の中で、たくましい男が座席をほしいままに奪い、ふんぞり返っているーーそういう嫌悪を感じさせる者にも、平静に善処してゆくという、なんでもないような至難なことに修行があるとおもいます。 その日その時の感情(こころ)を直く、落ち易い気持を

過悪をくり返さぬこと

反省して悪と知ったならば、二度とその過をくり返さぬことを誓いさえしたらよい。いたく悔い慚じるの結果、かえって心身をそこないなどし、再起の勇気もなくなってしまうなどというのは小人のことである。悪かったということがよく分かったならば、それを再びせぬようにさえしたらよいのであって、それ以外のことは無駄である。 誰だって、失敗もすれば恥もかく。それによって人は悟ってゆくのである。ところが、世には、自分の悪かった場合でも、心の中では悪いことをしたと悔いていながらも、正々堂々と、他人に

何かに向かって働くのが人生だ

何かに向かって働くのが人生だ ○ 希望と目標なしに、無闇やたらに焦りまわってもダメ。 ○ 空想でない、ごく卑近なところへ目標をおいて、一歩一歩着実に向上してゆけ。 これまでのお示し 万事が有り難く結構 https://note.com/azumanohikari/n/n1fe57f22e828 日の出の歌うたわむ https://note.com/azumanohikari/n/nacc729291f95