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七むずかしい理屈を知っている人は仰山いる。しかも彼らは、何もなし得ない。せいぜい、書物をあらわしたりするくらいのものだ。 学識という点からいうと、キリストにどれだけの素養があったか。ナポレオン、ジャンヌダークにどれだけの素養があったか。 人間の魂を、直接、うごかすものは何か?それは、人間の、より偉大なる魂である。 理屈はもう結構だ。理屈を超越した偉人が出さえすればよい。目に一丁字なくて結構だ。目にもの見せてくれる真人さえ出れば文句はない。 こんな紛糾した世の中には
なさずに、しりごみするは悪きくせなり。 なしてみれば、なんでも面白きものなり。 人は歩行するまでにも、ほとんだ満一カ年を要するなり。いわんや、他のことにおいておや。 その環境に同化するまでが、ちょっと苦しきなり。 普通人の修得し得るほどのこと、いかでおのれのみ習い得ざる理あらんや。発憤の足らざるなり、努力の足らざるなり。 何事何物にも、その特有の「呼吸」というものあり。要は、いかにしてこの「呼吸」を体得し得るかにあり。 人もし、人のごとき呼吸をなさざれば、生きてお
人間の心の世界は案外せまいものです。自分の年齢に近い人には関心があっても、へだたっている人々には無関心でいるものです。若い人が、道を歩きながら示す視線をみても言えましょう。 わたしの子どものころ、たくさんの信者さんに会っていても、年齢のかけはなれている人は、ほとんど記憶にありません。自分の意識の中にあるのは、その時代々々の自分の年齢に近い人が多いものです。自分と年齢のへだたっている人には、ばくぜんと見覚えはあっても、名前も知らないままにすごしています。ことに私のように大勢の
今まで長い間、よい人が苦しんだのは、修養させられたのだ。誰でも自分で、一度、苦しんでみねば、他人のことが分からぬからだ。 苦しむための苦しみではなく、悟るための苦しみなのだ。ただそれだけだ。 出口日出麿著、『信仰覚書』第二巻 「進まねばならぬ」 これまでのお示し
経るべき階段は経ねばならぬ。これを、人間理智から無理をして一足飛びに行こうとあせってはならぬ。しかし、それに時間は、本人の発憤精進次第で、非常に早くにでも、また非常に遅くにでもなる。 経るべき階段を経ないならば、それだけ、その人の魂が不自然になっていることになる。春から急に冬になったら、その冬は真の冬の要素をそなえていない、いわば不自然な冬である。 ○ 子供は子供らしいのが一番よい。それを、大人から見て、いけないといって叱るのは間違っている。このように、自分以外の一切の
なんでもないことを独り気をもんだり、遠慮したりしていては、まるで、この世へなんのために生まれさせられたのか分からなくなる。 各自は異なった使命をもって生まれているのであるから、各自は全力をあげて、よい意味の自己完成をなしたら、それで神もご満足、当人も使命をはずかしめなかったというものだ。 人々が悩むのは、つまり、自分の思うままができぬからだ。 ところが、世の中には、なせば、なんの苦もなくなし得る境遇にありながら、気が小さいところから、何ひとつ、思うようになし得ないで悶え
わからなくても、いま阿呆でも、一歩一歩ほんとうにすすんでおる人なら、最後には行くべき所にゆき、ほんとうに向上進歩を遂げる。ところが、いくら焦っても右に行ったり、左に行ったり、前に三歩に行ったり、うしろに四歩行ったりでは、いつまでたっても思う所に行きつけない。 省みて、一日にちょっとでも進歩したところがあるか、より良くなっておるか、信仰に光ができておるかーーというふうに、理想ばかりに走らずに、現在の一歩一歩に注意すべきであります。 すなわち質素(じみ)に生活を楽しむ人になり
疑ったり、恨んだり、そねんだり、ねたんだり、悲しんだり、憤ったりするごとに、ちょうど、それに相当しただけ、自分の魂は小さく、醜く、きたなくなるわけであります。 われわれは平素、なんでもないことに吾とわが心を痛め疲らしている場合が非常に多いのであります。 つねに心をひろく、大きく、ゆたかに持つ工夫をすることが、一番必要なことであります。 つねに感謝にみちた愉快な気持ちで暮らす工夫が、一ばん大切であります。 どんな人に対しても、決して悪く、これを思ってはなりません。つねに
自分がわからない人間は困ったものである。こういう人間にかぎって、むやみに傲然と構えてみたり、また、やたらに自己を無価値と考えたりしがちなものである。 自分の素質、天分、職命というものが、おぼろ気ながらもわかって来なくては、真の仕事はできるはずがない。 ○ たにんに、自己をよりよく見せようとする心が悪い。ありのままに自己を排出する心がけが必要だ。いや、時によっては、ありのまま以下に見られることに満足すべきだ。 出口日出麿著、『信仰覚書』、第一巻、ありのままの自己をだせ
人間が生まれてから一生何をしたかわからず、また自分で、何のために生きとるのやらわからず、終わってしまうということほど不幸なことはないのであります。いわゆる酔生夢死というて、ただ飯食うて生活のために一生懸命はたらいて、一生何かに追い使われるような気分で過ごしてしまって、さて、何を知ったか、何を悟ったかというようなことになると、なんにも得たところがない。 世間につれ代につれて、風があっちへ吹けば向こうへ行き、波がこっちへ立てば、こっちへ打ち上げられるというようなことで、自分で何
第一段目より第二段目に登るためには、 一、適当なる指導者 二、適当なる自力 この二つがいる。 ただし、指導者に頼りすぎるというと自力がつかず、また、自力のみに頼らんとせば、いたずらに労多くして効が少ない。けだし、適当な指導者は、被指導者にただ単に教えるにあらずして、うまく呼吸を彼みずから悟るようにと仕向ける人である。 自力を開発蓄積してゆくためには、どうしても、先輩の好適なる指導にまたなければならない。 ○ どうしようかと案ずる時は とにかく進め! やり損な
一ばん大切なことは、真の自己をいつわらぬことだ。無邪気になることだ。 思いを静かにして目前をみれば、わが道は自然につけられているのだ。焦慮さんたんして、歩をはこぶことを悟を要せぬ。 ただ、進みたいと欲した時に進まんとさえすれば、自然に脚がまえへ出るのだ。 いまの多くの人たちは、おのが目前にたんたんとして横たわっている大道をすすむことを逡巡して、わざわざ他に道を建設して、しかる後に、いわゆる科学的に進歩の方法を見出さんとあせっているのだ 残酷な刑罰さえ課したら、それだけ