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ぽつぽつ、あめのひ《短編小説》

 ひとり庭をぼんやり眺めていると、土の色が点々と変わり始める。朝から分厚い雲が空を覆っていたが、ついに雨が降り出した。
 六月中旬、日本列島は梅雨の真っ只中。落ちてくる雨粒を眺めながら、松土竜二はじっとりとした空気にうんざりしていた。
 しかし、雨が降る日には一つ良いことがある。それは、ミミズが土から這い出てくるため、見つけやすくなることだ。ミミズはとても大事な生き物で、畑を耕してくれたり、生ごみを土に返してくれたりする。そして、大切な小さい弟の食事にもなる。最近では、養殖ができないかと考えるほど、必要な存在だ。(家族からは、これ以上ペットを増やすなと言われているが)
 だらだら過ごしていたが、竜二は意を決して雑木林へミミズ狩りに出かけることにした。動きやすいTシャツに着替え、ポーチに貴重品を入れて、首には乾きやすいタオルを巻く。

 「りゅうじ、おでかけ?」
 出かける準備をしていた竜二に、幼い子どもが心配そうに呼びかける声が聞こえた。松土家に幼児はいない。それに、今この家にいるのは竜二だけである。
 ゴソゴソ……。
 部屋の片隅から微かに音がする。
 竜二は壁際に置かれた青色のコンテナを覗き込んだ。コンテナの中には一面にぎっしりと土が敷き詰められている。その中から、ビロードのような美しい毛並みを持ち、鮮やかな稲穂色をしたふわふわの小動物が穴から顔を出していた。
 一瞬、ふわふわした小さなハムスターにも見えるこの小動物だが、ハムスターにはない長い鼻を持ち、その鼻をくねくね、うねうねと忙しなく動かしている。鼻の先端は豚の鼻ようなハート形だ。また、特徴的な大きな前脚には5本の大きな爪が生えており、穴の縁にお行儀よく置いている。

 モグラである。
 この地域に生息しているアズマモグラは、通常、灰色がかった茶色の毛色だが、竜二の小さな弟であるこのアズマモグラは、変わった金色の毛色をしている。名前は「おころ」という。
 名前の由来は、昔、今は亡きひいじいさんが「またオゴロが畑で悪さしちょる」と憤慨していたのを思い出したのがきっかけだ。いつも優しかったひいじいさんが怒っていたのが、子ども心に少し怖く、その名前を忘れられなかった。母には「そんな可愛げのない名前より、きなこちゃんの方がいい」とごねられた。
 だが、なぜかそのときは「おころ」が良いと感じた竜二は、家族の数ある案を無視してその名前をモグラにつけた。何か特別な感じがして、譲れなかったのだ。

 おころが変わっているのは、毛の色だけではない。
 「りゅうじ、おでかけ?」
 再び、先ほどと同じように、心配そうに様子をうかがう子どもの声がした。
 そう、おころは人間の言葉を話すことができる、非常に変わったモグラである。実際には音を発しているわけではなく、竜二の頭の中に直接声が聞こえるような感じで話しかけてくるのだ。不思議な力だ。
 竜二は驚くでもなく、飼育ケースとして使用しているコンテナの横にしゃがみこみ、モグラのおころを見つめた。おころはどうやら、竜二が出かける準備をしていた際に出した音が気になり、土から出てきたようだ。
 モグラは非常に耳が良く、鼻の先にある特別な感覚器官を使って周りのわずかな振動でさえも感じ取ることができる。この能力で、おころは目の代わりに世界を見ているのだ。今も鼻先を忙しく動かして、コンテナの外の様子をうかがっている。
 おころが上を向いたときに、ちらりと見えたおちょぼ口がなんとも可愛らしい。

 竜二はゆっくりとおころに話しかけた。
「ああ、雨が降ってきたから、ミミズでも探しに行こうと思って。おころはミミズが大好きだろう?」
おころがすかさず答える。
「だいすき。みみず、たべたい」
 おころの素直な返事に、竜二は思わず笑みがこぼれる。そして、指先でおころの頭を優しく撫でた。ふかふかで、まるで高級なベルベット絨毯のような手触りで、ずっと撫でていたくなる感触だ。
「じゃあ、少しお留守番をしていて……」
「やだ!」

 家に置いていかれると分かるやいなや、おころは慌てて穴から飛び出してきた。白いお尻にちょこんとついた短い尻尾をふりふりさせながら走ってくる。おころはコンテナの壁際までたどり着くと、壁にへばりつくように立ち上がり、「出して!」と言わんばかりに大きな前脚で一所懸命に壁をカシャカシャと引っ掻いている。これはおころがコンテナの外に出たいときや、食事を催促する際に見せる行動だ。
 よほどお留守番は嫌らしい。竜二は後頭部をかきながら、おころを両手でそっと優しくすくい上げた。

 竜二は結局、当初の予定を変更して、自宅の庭でミミズを探すことにした。家の周辺で探すなら、本当は畑のほうが見つけやすい。しかし、モグラのエサとしてミミズを取ると、モグラ嫌いのじいさんに怒られそうだったため、庭で探すことにした。庭ならモグラ好きの母さんが手入れをしているので、怒られることもないだろう。

 念のため、雨でおころの体が冷えないよう、綿100パーセントのタオル地のペットボトルケースにおころを入れた。ケースにすっぽり入れられたおころは、ふかふかのタオルに包まれて気持ちよさそうにしている。
「おでかけ!おでかけ!」
「そんなにおでかけが嬉しいか?」
「りゅうじと、おでかけ!」
と、ご機嫌な様子で声が聞こえてくる。まさかおころがこんなに外出を楽しみにしているとは、竜二には意外だったが、その楽しそうな様子に思わず頬が緩んだ。
 竜二自身は赤のレインパーカーを羽織る。このパーカーには大きなボックス型のポケットがついており、そこにおころ入りのペットボトルケースを入れた。あまりにもぴったり収まったため、まるでおころのために作られたかのように感じた。

 雨は先ほどから変わらず、優しく降り続いていた。竜二ひとりだけなら、パーカーのフードを被るだけで事足りる。しかし、今は体温調節が苦手なおころが一緒にいる。念のため、傘を開いて外に出た。バフッと勢いよく傘を開くと、その音に驚いたポケットの中のおころがびくりと動き、竜二は思わず吹き出してしまった。

 玄関を出ると、ふんわりと濡れた土の香りがしてきた。そして、雨に濡れた庭でひっそりと咲く鮮やかな赤い紫陽花が目についた。これは、ある日母さんが物珍しさから衝動買いした紫陽花で、帰ってくるなり「ほら、珍しい色でしょ」と嬉しそうに見せてくれたものだ。

 (そうだ、おころにも見せてやろう)
 竜二は周りを確認してから、赤い紫陽花の前でポケットの中のおころを抱き上げ、そのまま花に近づけた。
「おころ、見てごらん。紫陽花が綺麗だよ」
「あじさい?」
 おころは長い鼻を動かして何かを考えたのち、「あじさい、どこ?」と尋ねる。
「あー、そっか。紫陽花はあんまり香りがないもんなぁ」
「あじさい、なに?きれい、なに?」
 そうだった。おころは目が見えないのを忘れていたと、竜二は自分の失敗に少しだけ落ち込んだ。花を見て綺麗だと思う感覚も、目が見えてこそ様々な色を感じ取れるからこそのものなんだと、あらためて思った。

 竜二は気持ちを切り替え、おころに紫陽花の説明を始めた。
「紫陽花はな、雨の季節に咲くきれいなお花だよ。土によってお花の色が変わるんだ。まるい形のお花がたくさん集まっていて、もこもこして見えるんだ」
「あと、きれいっていうのは、見たり聞いたりして、心がうれしくなるようなことだ」
「おはな、もこもこ……?」
「そうそう、お花はもこもこだ」
「もこもこは、ふわふわ?」
「そ、そうだね。もこもこはふわふわだ」
「おころも、ふわふわ!おころも、もこもこ!きれいで、かわいい!」

 なんだか連想ゲームが始まってしまった……。しかも、驚くほどポジティブである。もし人間なら、間違いなくナルシストと言われてしまうだろう。
 それにしても、おころはどこで「もこもこ=ふわふわ」ということを覚えたのだろうか、と竜二は疑問に思ったが、おそらく自分が不在のときに家族が勝手に部屋に入っているということだけはわかった。
 竜二が10時間以内に帰宅できないとき、家族におころの食事を用意してもらう必要があるため、部屋には鍵をかけていない。しかし、おころを保護してから一度もそんなことはなかったので、家族が部屋に入る理由はなかった。
(なんだよ、これじゃプライバシーもあったもんじゃないな……)
 竜二は心の中で軽く悪態をついた。

 そんなこととはつゆ知らず、おころはご機嫌で竜二の手の上から身を乗り出し、紫陽花に鼻を近づけていた。思いのほか長い体が、竜二の手のひらからこぼれ落ちそうになる。おころは小さな後ろ足をこれ以上開かないほどに広げて踏ん張り、落ちないようにしている。竜二も慌てて傘を首と右肩の間に挟み、両手でおころを支えた。
 そして、竜二はそのままおころを朝顔の小さな花びらに近づけてやった。おころは、やっと鼻先が届いた花びらを恐る恐る確認している。長い鼻先で花びらをペシペシ触っていて可愛い。花びらについていた大きな雨粒が、ゆっくりと滑り落ちて土に消えた。

 おころは、ひとしきり花びらを鼻先で触れた後、どうやら満足した様子で「おなか、ぺこぺこ」と呟いた。
「そうだったな、ミミズを探さないと」
「みみず、たべたい」
 竜二はおころの頭を撫でながら、ふと思った。
 たとえ同じ景色が見られなくとも、一緒にその時間を楽しむことができた。それで十分に良い時間を過ごせたと考えた。
「また、別のお花を見に行こうな」
「おはな、りゅうじと、みる!」
 おころも紫陽花をとても気に入ってくれたようで、竜二は心がじんわりと温かくなった。まるで自分が感じた紫陽花の美しさを一緒に楽しんでくれているようで、嬉しかった。
(今度は、おころが花見をもっと楽しめるように、良い香りがする花を探してみよう)
そう思いながら、竜二はおころをポケットに大事に入れて、庭にミミズを探しに向かった。ポケットの中からは「みみず、みみず」とおころの喜びと期待に満ちた小さな声が聞こえてきた。

<おわり>


ご覧いただきありがとうございました。
モグラの豆知識も、よろしければぜひご覧ください。


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