『頑張れない』という才能_2021/12/25

努力する才能とやらをよく耳にすることがあるが、しかし努力できない才能というものを、あまり聞いてことがない。しかし才能なんてものは、水を都会で売るか砂漠で売るかみたいなもので、所変われば価値が変わる。そしてぼくは当然、その努力できない方の才能の持ち主であると自負している。

努力できる人は強い。ひたむきに積み重ね、何かを得ていける。時に動物としての本能にも抗うその様は、人間としてのある種の到達点に近いとも思える。しかしながら、努力する才能というのは万能ではない。所詮人は人であり、そして動物であるからだ。

ぼくが知っている心を壊した人達は、

みな努力する天才だったように思う。

嫌なことにも耐え、あるいは耐えざる負えない環境から逃げず、立ち向かい、戦った戦士達であったように思う。しかし剣は所詮鉄であり、鉄には強度というものが存在する。いくらその刃を研ごうとも、いくら手入れをしようとも、鉄である以上無理をし過ぎれば必ずいつかは折れるのだ。刀で人を斬れるのは、5人までと聞いたこともある。

努力する天才と持て囃される人物とはとどのつまり、結果論として自分の限界ギリギリまで戦いそして偶然臨界点を突破しなかった人物のことであると思っている。つまり、適度に努力ができた人物だ。才能も、過ぎればその身を焼き尽くす。そして、自身の才能に見合った心身の耐久度を備えているとも、また限らない。

「頑張る」とは、命を削る諸刃の剣なのだ。


『天霧ケイは何者か』

この作品は、ちょうどぼくが一年前に書いたものだった。天才小説家、天霧ケイの突然の失踪について、関係者が一人ずつ証言していくものだ。上に貼った日記には、作品URLと、そして当時この作品について書き残した後書きがある。もし時間があれば、、、。いや、別に読まなくてもいいか。

過去の日記など、振り返るものではない。そう思っていたけれど、この去年の日記に関しては、読み直せて良かったと思えた。そこに書かれていたのは、天霧ケイという架空の人物に投影した、ぼく自身の苦悩だった。それはほとんど、未来の、つまりは今のぼくへ向けての手紙のような作品だった。頑張り過ぎてはいないか、孤独の中に沈んでいないか。周囲を見渡して、一人じゃないよ。まるで自分自身に言い聞かせるように。


ぼくは、一年間生き残った。

来年のことはわからない。

でもそんなのは、いつものことだった。


そしてぼくを今日この日まで生き残らせてくれたのは、時に嫌いもした、自らの怠惰な人間性。つまりは、頑張れない才能であったように思う。天霧ケイと東真直に違いがあるとするならば、きっとそこだろう。彼は頑張り過ぎた。ぼくは、頑張れなかった。だから生きている。


頑張れない才能とは、自己を守るリミッターだ。


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