退屈を殺せ!!!_2021/08/16

ぼく達は幸せになりたがった。そして、幸せを誰かと優れていることや、大切な誰かと共にいることや、より充実した時間を過ごすことだと思いたがった。けれど幸せの正体とは、瞬間である。

ふいに友達が馬鹿なことをして笑ったり、

ふいに覗いた彼女の寝顔が可愛かったり、

ふいにネクタイを外した誰かの姿がかっこよかったり、

ふいにこれまで積み上げた勉強や仕事の達成感を噛み締めたり。

友達も、彼女彼氏も、好きな人も、勉強も仕事も、全てはこの一瞬を生み出す為の手段に過ぎない。それらがあるから幸せなのではない。それらがあると、また充実していると、幸せな瞬間を発生させやすいというだけなのだ。どんな環境にいても、誰といても、常に幸せなんてことはない。辛いことも、苦しいこともある。同棲していればタオルを毎回洗うかどうかで揉めることもあるだろう。しかしそれらを基盤として、ふいに訪れる幸せを感じることにより、人は生きていけるのだ。もちろん、幸せを築く基盤とは上記に述べたものだけだけではない。そこは、個々人に委ねられるところだろう。

ここで大切なことは、幸せそのものは瞬間だ。しかし、幸せを築くその礎となるもの、勉強だったり仕事だったり趣味だったり、なんでもいいが、これれ基盤が無ければ、幸せを感じるタイミングは減る、ということだ。友達がいなければ、友達と笑い合う幸せは訪れない。家族がいなければ、家族と過ごす幸せは訪れない。必須ではないが、あれば幸せの一瞬を発生させやすい環境というものがある。そしてそれらは、長期的に幸せの瞬間を生むものであればあるほど、簡単には得難いものであることが多い。

SNSを見たりアニメを見たり映画を見たりといったコンテンツは、これら幸せの瞬間の擬似体験であると思う。自ら何か積み上げ、蓄積した上で得た幸せ。例えばずっと練習してきた末に甲子園を勝ち取った瞬間などは、その努力の日々が無ければ得られない幸せだろう。だが、それらを得ることが難しい人にとって、娯楽的なコンテンツは役に立つ。それを見てしまえば終わりで、瞬間瞬間の延命にしか役に立たず、また幸せを感じる為にはまた新たにコンテンツを消費しなければならない。低所得者ほど煙草を吸い、またすぐ無駄遣いをしてコンビニに駆け込みファミチキを食べるのはここに要因があると思っている。

そう、延命だ。

瞬間の延命的な娯楽、幸せ。これをぼくは、快楽と呼ぶのではないかと思っている。それを獲得するのに大きな努力を必要とせず、短い時間やお金を払えば得られる幸せのことだ。ある意味、SNSで誹謗中傷したり彼氏彼女が傷つくようなことを言ったり、また言われるのを楽しんだり、SM的な要素もまた、この快楽の類ではないかと思っている。

瞬間の快楽を求めるとは言い換えれば、幸せの捏造。

得難い幸せを、簡易的に獲得できるのが快楽。しかし、どうしてぼく達は幸せになりたがるのだろう。どうして、幸せでなければならないのだろう。そこは、ここ数日死のことばかりを考えてきたぼくが、多少強引に、言い切ってしまおうと思う。

普通に考えたら、死ぬべきだからだ。

真っ当に、正面から、どうして生きているのか、死んだ方が楽ではないのか。そうして突き詰めていくと、ほぼほぼ死んだ方がいいという結論になる。そんな馬鹿なと思うかもしれない。ただ、考えてもみて欲しい。

「会社辞めたい!辛いことしかない!涙が出る!」

こんな人がいたら、なんと言う?辞めたら?と言わないだろうか。それはつまり、死にたがっている人に、死ねば?と言ってるようなものである。実際、ここらへんはぼくの思考が少しドライというか、はっきりし過ぎている節もあるかもしれないが、ぼくは嫌な場所や、ことは辞めてきた。会社はもちろん辞めた。で、その理屈でいくと、ぼくが今、人生を辞めていないのはおかしな話なのである。嫌なことを辞めるなら、人生を辞めたっていいはずだ。実際、辞める人は後を絶たない。しかしそれは、ひどく真っ当な思考のように、ぼくには思えてならない。

辞めたいなら、辞めればいい。辞めない人がいてもいいが、辞める人がいることは自然なことだろう。それなのに、人生はなかなか辞められない。ぼくもまた、このように未だ生き恥を晒して生きている。そこには、「時間」と「価値観」が関係しているように思われる。

例えば、初めて3ヶ月のバイトがすごく嫌な場所だったら、どうか。簡単に辞めてしまえるのではないだろうか。3ヶ月という期間は短いからそんなに愛着も無いし、バイトなんてすぐ辞めるものだから、変ではないだろう。

例えば、新卒一年目に辞めたいと思ったらどうだろう。ちょっと躊躇するのではないだろうか(ぼくは二年目の夏に辞めたけど)。一年で仕事を辞めるのは気が引けるし、職歴に傷がついたらどうしよう。周囲に迷惑もかける。

では最後に、人生ならどうか。死にたい。なんてことを思うのは、人生を始めてから早くても10年ほどが経過しているだろう。もう10年も、生きているのだ。その間に、幸せな瞬間もあっただろう。もちろん個人差があるのは前提で。これを仕事で例えるならば、「10年勤めたし、辛いこともあったけど良いこともあったしな、、、」という、ブラック企業にズブズブの人間みたいになる。10年であれば、まだ辞めやすいかもしれない。しかしこれが、20年、30年になったらどうだろうか。明確な理由をもらえない限り、惰性で生き続ける判断が、正しいように思えてこないだろうか。なんてったって、長く生きれば生きるほど、「生きててよかった!」という経験は多くなる。例え他の99%の時間が辛くても、いざという時に思い出すのは1%の幸せだった記憶だ。

つまり何が言いたいかというと、ぼく達が今生きているのは、幸せだったからである、ということだ。それは、そんなたいそうな幸せではなくていい。冒頭に述べたような、取るに足らない一瞬だ。それでもぼく達は、そんな一瞬の輝きを忘れてはいないのだ。ふと訪れる幸せの瞬間は、死にたかった気持ちをまたリセットし、生き続けさせる。いつかあの日、あの時感じた幸せがまた訪れると信じて。幸せという餌をよだれを垂らして待つ、それはまるで、パブロフの犬だ。

ぼく達は、幸せなのだ。正確に言うのであれば、幸せな瞬間を知っている。でなければ、この歳まで生きてはいなかった。もっと早めに、こんな人生なんていうほぼ苦行のクソゲーから脱落していたはずである。しかしながら今日まで生きながらえているのは、幸せを知っているからである。誰もが幸せになろうとするけれど、全く検討外れであると、ぼくは考えた。もう、幸せなのだ。幸せなんてものは、ふとした瞬間に降りてくるのだ。それを、認識できる感性と、それを発生させやすくする幸せの基盤があるかどうかだけで。

では、ぼく達はどうしてこんなにも死にたいのだろう。それは、幸せでない全ての時間に関係している。夜になると、暇になると病みやすくなる。なんてことがある。ぼく達は楽しい時間にも、また忙しい時間にも、死なない。ぼく達を殺すのは、夜であり、暇であり、退屈である。退屈こそが諸悪の根源であり、退屈こそがぼく達を殺すのだ。

退屈を感じている時間、それは緩やかに自殺していると思っていい。


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