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自分語り

※これはあまり楽しいお話ではありません。




「たすけて」「頑張ったよね?」「もういいか」「どうでもいい」気がつけばこれらが頭を言葉ループする毎日。気がつけば自分と向き合うことなんて忘れていたのだと友達のノートを見て思いました。

高校までの頃といえば、やり場のない怒りをどうしてやろうかと、布団に叫んだり声なき声で叫んだり夜な夜な泣いたりしていましたが、今やそんな感情、微塵も湧いてこないのです。

それはもう、全てがどうでも良くなってしまったのでしょうか?それとも、今までが恋人主体の人生だったのでそれが無くなった喪失感なのでしょうか。

恋人と縁を切り数週間、助けを乞うように彼の名を無意識に呼ぶことが多かったです。しかしそれも次第に少なくなりもうたまぁに、程度になりました。
彼は私を助け出してくれた人であり、初めて愛を教えてくれた人であり、一緒にいるということ、大切にするということを教えてくれた人でありました。感謝しています。過去の栄光ですね。

だからこそ、前を向かないといけない。勝手に脳内が絶望するこの体を、どうしたらいいのか2週間おきにお医者さんと考える。退院から数えて半年ほどこの日々を続けてきましたが、それに疲れている自分もいるのです。
自分の状態を把握し、以前の状態と比較し報告する。これを自分の力でやるんです。でもこれが出来ないと生きていけないのです。

ノートってこういうの書いてもいいのかな?まぁいいか。死のうかと最近はずっと頭の片隅で考えてます。遺書を大切な人たちに書く時点で相手が多すぎて挫折してる面はありますが笑死ぬなら自宅で首吊り、合鍵を作り自宅に送ろう、毎日のように連絡をとっているし既読がつかなければ気がつくだろう、スマホのロックは解除しておこう。ビデオレターとかあった方がいいかな?考えることは沢山です。
でも、後悔していることがひとつあるとすれば、妹を、最後に抱きしめたかったということです。不甲斐ない姉でごめんね。あんなに偉そうにしてたのにこんなことに屈してごめんね。お前は生きるんだよ。きっと私が同じ年だった時と比べて幸せなのは実家に飾られた写真の数々でわかるだろう?

話を戻しましょう。とまぁなんとも「生きるということ」に精一杯でほかの事があまり手についてない状態です。「生きるとは希望を持つこと」これは私が大切にしてる言葉ですが、希望とはなんでしょう。見つけ出さなければ見つからないのでしょうか。でも私にはそんな力余っていません。じゃあ私は生きる屍なのでしょうか。私はそうだと思っていますし、だからこそ死んでも問題ないと思っています。

それでも嫌だと皆言ってくれます。私の苦労を知ってるからこその言葉をかけてくれる人だっています。幸せものじゃありませんか。でも私にはそれを受け取るだけの余力もないのです。

みんな多感な年頃です。まだまだ日々起こることに一喜一憂し、初めてのことに戸惑い、各々の成功をめざしそれらを達成した時に喜びを示します。そんな時期に死んでしまうのはあまり良くないんでしょう。偉そうですが。

全てわかった上で叫ばせてください。生きたい。
生きたい生きたい生きたい。

ほんとは生きたい。生きれるもんなら生きていたい。でもそれにはこの世の中は大変すぎる。抗うつ薬増やせよという話かもしれんがこれ以上太るのは勘弁して欲しい。この二者択一を迫られるのも正直意味がわからない。頭が回らないから自分がどうしたいのかなんて分からない。スーパー行ってもコンビニ行っても何を買ったらいいのか自分は何が欲しいのか分からない。資格の勉強だってやりたいのにできない。アニメ見て奮い立たせることもあるが体にガタが来ているのも分かる。友達だって生きていた方が迷惑がかからない。

だから寝るのです。今できることを精一杯やる。それが私の答えです。というかそもそも起きれない。もちろんたまに散歩にも出かけますしダンスレッスンにだって行きますしバイトにも行きます。でも基本的に寝る。必要最低限の食料食べて、辛いとかなんにも考えずにぼーっとYouTubeを垂れ流す。起きたら「寝よう」と考えて寝る。起きてる時間の方が少ないくらい。
必要最低限の社会的繋がりを保ちつつ体力を温存する。それが私の出した答えです。いや、そうせざるを得ないのです。

社会人になったらどうなってしまうのか。とっても不安です。でもそれまでは、今に集中したいと思います。昨日よりほんの少しでも光ってるなら本望、ってね。

じゃ。長かったね、重かったね、ありがとう。



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