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【読書感想】存在のすべてを/「生きている」という重み。「生きてきた」という凄み

存在のすべてを/塩田 武士


<あらすじ>

30年前の誘拐事件。被害男児は、3年後に無事に解放された。

空白の3年間。いったいなにがあったのか。どこで、誰と過ごしていたのか。

当時事件を取材した新聞記者が、事件を再調査してたどり着いた「真実」とは?

※この記事は約4200文字、だいたい8分で読めます。


〇読み終えた感想。

涙がとまらない…。

そんなふうに書くと、「ありきたりだ」とか「もっとほかに書くことあるだろう」とお叱りを受けるかもしれない。

でも、それを承知で、あえて書く。

「涙が、とまらない…」

どうして、わたしは涙がとまらないのだろう。

今回は、そこを中心に書いていくことにする。

以下、ネタバレを含みます。




〇前代未聞の珍事

「お前の子どもを預かった。返してほしければ、○〇万円用意しろ」

身代金目的の誘拐事件から、この物語は始まる。

最近は、めっきり聞かなくなったけど、たしかに30年ほど前は、ときどきニュースになっていた。

犯人の指示通りに動き、現金受け渡しの場で容疑者確保!というのが、事件解決のパターン。

今回も、指定された場所に現金の入ったカバンを置いて、犯人が来るのを待つ。

すると、たまたま通りがかった善良な市民がカバンを「遺失物」として交番に届けるという、前代未聞の珍事が発生。犯人確保の最大のチャンスを逃してしまう。

その後も犯人側からの接触は一切なく、情報が途切れて捜査は難航。

お金を受けとれなかったのだから、こどもを返すメリットは、犯人側には、ない。

最悪の事態が、頭をよぎる。

事件は暗礁に乗り上げ、3年の月日が流れた。

世間が事件のことなどとっくに忘れていたであろうそんな時期に、男児はひょっこり帰ってきた。

事件当時4歳である。そんな幼子が、いったい今まで、だれと、どこで、どうやって過ごしてきたというのか。

再び世間の耳目を集めることになった誘拐事件。

しかし警察の対応に不信感を募らせていた家族は、一切を黙して語らず。

こうして、空白の3年間という謎を残したまま、事件は時効を迎え、幕引きとなった。

※※※※※

「ちょっとの間、子どもを預かってくれないか。友人夫婦の子どもなんだけど、今ちょっと、もめててさ」

てっきりお金の無心だと思っていた野本貴彦は、兄の雅彦からの提案に眉をひそめた。あまりに突飛すぎるからだ。

長い間音信不通だった兄が突然現れて、他人のこどもの面倒を見てくれと言ってきたら、誰でもそうだろう。

そもそも雅彦は、学生時代から警察の世話になっている家族の厄介者だ。関わりたくないというのが本心だ。

しばらくして再び雅彦がやって来た。リュックを背負ったこどもと一緒に。

野本夫妻は、その子を不憫に思い、3日だけという約束で、こどもの面倒を見ることにした。

それが、3年という長きにわたる、3人の「逃亡生活」になるとは、思ってもみなかった。


〇「生きている」という重み。「生きてきた」という凄み。


誘拐犯の弟夫婦と、その事件の被害男児。

野本貴彦とその妻優美、そして内藤亮の関係を客観的に見れば、そのようになる。

画家である貴彦は、亮に絵画の才能があることを見出し、自分の後継者のように育てる。

この間、野本夫妻が考えていたことは、亮の身の安全だった。

亮の母親は、我が子が誘拐されたというのに、平気でパチンコに入り浸ったり、取材に来たマスコミに悪態をついたりと、とんでもない母親だった。

ろくに面倒をみないばかりでなく、虐待と思われても仕方ないこともしていた。

家に帰せば、母親からの虐待。
犯人側に見つかってしまえば、口封じで殺される。

亮の身の安全、そして幸せのためには、このまま自分たちと一緒にいるしかない。

警察の手が及びそうになると場所を変え、日本各地を転々としながら、細々と生きてきた。

亮と過ごす、ささやかだけど満ち足りた、かけがえのない日常。

「親子」としての生活を重ねていくうちに、お互いに、本当の親子以上のつながりが芽生えてくる。

しかし、

血の繋がらない「家族」として生きてきた幸せな時間は、やがて終わりを迎える。

亮が高熱を出した。病院に連れていこうにも、亮は、健康保険証がない。

そう言えば、予防接種も受けていない。本来なら小学校に上がっている年齢だ。

自分たちと一緒にいることが、亮の将来にとって良くないことだということは、うすうす感づいていた。

だけど、それ以上に、別れること、亮を手放すことがつらすぎて、苦しすぎて、考えたくなかった。

でもそれももう、限界が近い。

何としてでも亮だけは守らなければ。


貴彦は考え抜いた末、秘密裏に亮の祖父と連絡を取る。

実の母親ではなく、祖父母と一緒に暮らすこと。
警察にしゃべらないこと。

この2つを条件に、貴彦は亮を返すことにした。


〇失ったのではない。お返ししたのだ。


「そんな日が、来なければいい」

亮とともに、幸せや喜びを感じる日々を過ごしていても、やがて来る別れを思うと胸が締め付けられた。

亮を手放す。

それは、もう二度と会えなくなるということだから。

このままでいられたらどれだけ幸せだろう、と心が折れそうになる。しかし、それは亮の人生を奪うことを意味する。〈引用〉

別れの朝が来た。

優美は亮の身支度をしているうちに、この3年間の出来事を思い返した。

毎日が楽しくて仕方なかった。子どもの成長が、自分を必要としてくれることが、家族として育っていくことが、これほど尊いものとは知らなかった。〈引用〉

決して楽ではなかった生活。
警察の手が及ぶのではないかと、常につきまとう不安。

それでも、

家族として一緒に過ごした時間はうそじゃない。

亮がいたからこそ、
得られた感動、味わえた喜びだって、
たくさんあったんだから。

遠ざかる亮の後ろ姿を、祈るような気持ちで見守ることしかできない優美。

いくら胸の内で「行かないで」と叫んでも叶わない。〈引用〉

どんなに願っても叶わない現実に抗うこともできず、
無力な存在としての自分を、だまって受け入れなきゃならない。

そんな日が、いつかわたしにも、来る。

そう思ったとき、次第に視界がぼやけ、涙が止まらなくなった。

別れがつらいのは、血のつながりがあるからじゃない。
過ごした時間の長さでもない。

心が深く、つながっているからだ。

※※※※※

野本夫妻は、亮を「失った」のか。「奪われて」しまったのか。

そうではない…と思う。

本来、亮がいるべき場所に、「お返し」しただけだ。

最近読んだ別の本の言葉が、ふと脳裏によぎる。

失ったと考えるのではなく、「借りていた」ものを返したのだと考えてみる。

わたしたちは、何も持たずに生まれてきた。

人生を積み重ねていくうちに、たくさんのものを「所有」する。

ても本当は、
人間関係も、身の回りの品々も、「わたしのもの」なんて、ひとつもないのかもしれない。

死ぬときは、何ひとつあの世に持って行くことはできないのだから。

すべてのものは、「わたしが生きている間」だけの、期間限定の借り物なのだ。

モノだけじゃない。

このわたしの身体だって、生きている間だけ借りているだけ。

わたしはそのとき、
きちんと送り出せるのだろうか。
ちゃんと感謝して、お返しできるのだろうか。


〇まとめ


亮と別れた後、貴彦がとった行動について、実は、具体的に書かれていない。

そしてそれは、最後まで明かされていない。

だけど、わたしには、貴彦が考えていることが痛いほどよくわかった。

亮を守るには、それ以外の選択肢はないからだ。

わたしも彼と同じ立場だったら、同じことを考えるだろう。

「生きている」という重み。「生きてきた」という凄み〈引用〉

貴彦は、この3年間のすべてを、
そして、貴彦自身を、墓場まで持って行ったのだ。

亮という存在のすべてを、
貴彦という存在のすべてで、

守り、慈しみ、愛したことを。



存在のすべてを/塩田 武士





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