「Nのために」が好きなのは、Nのためと見せかけて皆主体性を失わないから

数日前に急に観たくなって、Fire TVで探してみたけれど有料版しか見つからず諦めていましたが、昨晩ふと、「もしかして。。」と思いTVerを観たら、あった!本日現在、視聴可能なのは1,2,7,8,9話と少し歪ですが、5話分一気に見ました。どうしてこんなに泣いているのだろうと思うくらい涙が出て、今も出っぱなしで書いています。

世界の不条理が、恐ろしくて、悔しい。
基本的には楽観的に楽しく生きておりますが、このような感情も心のどこかに常に持ち続けながら生きているということも認識しているので、溜まっていた感情が、Nのためにに反応しているなーと自己観察します。

最終話はまだ今回は観ていないけれど、前に一度観た中で印象に残っている、お母さんとの再会シーン。

あの、お母さんが、働いて、自分の足で立っている姿は、どうしても胸に来る。私の母は、ずっと専業主婦で、父が他の人と暮らし始めてからもずっと父に執着し続けている。もう何年になるかわからないくらいだけれど、正式に離婚はしておらず、父に生活費をもらって、今も生活している。ずっと悲しんで、父を責めながらも待ち続ける姿に、自分で社会に出て、少しでもはたらく経験をすると気持ちや見方が変わるかも、と、声掛けをしてきましたが、結婚して何十年も仕事をしていないから自信も勇気もない、そして、なぜ苦労をしてきた自分が働かなければならないのかというプライド、世間の目を気にして、働くには至らずです。不憫ではあるけれど、自分が変わろうと思わない人を変えることはできないし、私自身が、自立して生きる(彼女の「女性」としての倫理観には反するが、楽しそうにそれをやる)姿を見せることしかできないと思って生きています。

今までも何度も思ったし、今もそう思っているけれど、彼女の年代、彼女が生きてきた環境を考えると、仕方がないと理解できる。私は自分の人生を生きることしかできないのだから、気にしすぎる必要がないこともわかる。

だけどのぞみが、働きはじめた母に会って、自分の病気を告げ、「死ぬのが怖い」と打ち明けた姿に、どうやっても涙があふれるのは、心のどこか深い深いところで、母が立ち上がることを助けられない自分の悔しさ、私も生きることが怖くて怖くてたまらない時があることを、受け止めてもらいたい気持ちが、あるのではないかと気付かされる。

こういう感情は、出る時にはしっかりしっかり出す方がいいと思っているし、生理前は特にそういうタイミングであることに加えて、今回はNのためにが感情デトックスのトリガーになってくれた。自分をよしよししながら、どんどん泣け~とやってるうちに、6:40 AM 現在、外もすっかり明るくなってきまして非常に気持ちはすっきりしてきました:D

それぞれがそれぞれの「Nのために」、皆行動するわけだけれど、誰も依存心がない。相手にも何も求めない。自分が主体であるか否かは、どの物語においても非常に異なるメッセージを持たせる要素だと思う。

Have a good day.


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