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大学院生の私は高卒の人とは混じり得ない

これまでそんなことはない、あり得ないと思っていたことに変化が出てきた。

「人生の中で関わることのない層がいるかどうか」という点だ。

上記の問いに対して私の考えは次の通りだった。

「関わりに行きたくないという強い意志がある層以外は自然と過ごしている中で嫌でも出会うだろう」

しかし、あることを境に「関わりに行きたくないという強い意志」にかかわらず、「関わることのない人」はいるのかもしれないと思うようになった。

今回は、私の過去のnoteに対するアンサーnoteとして記すことにする。

一つのきっかけ

私に「人生の中で関わることのない層がいるかどうか」という問いを見つめ直す契機をくれたのは過去のnoteに対するコメントだった。

【コメントとその解釈①】
私が過ごしてきた中高一貫校から大学に進学する「まともな教育」を受けてきた水準と、高卒の水準とでは根本的に文化が違う。
(解釈に問題があると思う場合はご指摘ください)
【コメントとその解釈②】
なぜ低学歴と呼ばれる人や立場がダメなのかは、院卒の立場からだと一生わからないのではないか。
(解釈に問題があると思う場合はご指摘ください)

同じ方から頂いたコメントでもあるため、両者に共通点を見出し次のように私は捉えた。

「私と私が関わることのない人とでは、根本的に文化が違うから一生関わらない人の立場はわからない」

と。

私はこのコメントを頂いた時点では、「正直そんなことってあるのか?」と思った。

その根拠もあったはずだが、考えが変わった今ではすっかりその理由も忘れてしまった。きっと楽観的なものだったのではないだろうか。

客観的に見ると、この頂いたコメントに対する見方も違うと思うので、このコメント自体にも賛否はあると思う。

しかし、このコメントが私のそれまでの考えを疑う出発点の1つであった。

当たり前を疑う姿勢と大きな誤算

私は自分の中の当たり前について、疑う姿勢を大切にしてきました。

これは自分にとっては当たり前だけど、それは自分の経験が背景にあるからで他の人にとっては当たり前ではないかもしれない。

といった感じである。

しかし、それを超えるような出来事があった。

それはある学力テスト系の番組を見た時だ。
(小中学校のレベルの範囲から出題されるテストを出演者が受けて、その成績や珍回答などを楽しむ?番組)

数年前だと、アイドルなどがやっていた番組の印象が強いのではないか。その系統の番組を久々に見たのだ。

出演者は通信制大学に通う者、または高卒と呼ばれる人たちだった。4年制の大学に縁のある人はいなかった。

そんなエンタメ番組で1番衝撃を受けたのは、「地図が指し示す都道府県を答えよ」という問題であった。

多くの出演者の正答率が2割から5割であった。

この事実に私は正直驚いた。(念のため補足しておくが軽蔑などはしていない)
自分の中で「正答率はさすがに7割はあるはずだ」と思っていたからだ。

「自分にとっては当たり前だけど、他の人の当たり前ではないかもしれない」と疑う姿勢を持つように普段から心がけている私にとってそれは、大きな誤算のような出来事であった。

他の人にとって、私が考える「当たり前ではないかもしれないこと」の基準が大きく違うかもしれないと気づいたからだ。

そして、自分の周りにそういった「都道府県の半分以上がわからない」という人はいないことから、私が「関わることのない人」っているかもしれないと考え直すようになった。

変化が生んだ変化

それからというもの、私が「関わることのない人」はいるのではないかと考えるように傾倒していった。

上記の学力テストのような、普段自分が関わっていないと認識できる出来事が他にもあったわけではない。

私が考え、持っている「当たり前ではないかもしれないこと」の基準が大きく違うかもしれないと疑うようになったからだ。

その疑いが蓄積された結果、「関わることのない人」っているかもしれないという考えが強まっていったのである。

「関わることのない人」の目に映る私

正直私はそういう人たちとも話してみたい。
と、まだ私は思っている。6割くらい。

前までは9割9分の強い思いだった。

その思いの強さが弱まった背景には、どこかそれこそ最初の方に書いた

「私と私が関わることのない人とでは、根本的に文化が違うから一生関わらない人の立場はわからない」

ということを薄々と感じるようになったからだと私は思っている。

高卒の貴方達と話したいという姿勢を見せる私を前に、「私と関わりを持たない人(=根本的に違う文化を持つ人)」はどう思うだろうか。

・「院卒」である私が「高卒」と括られる人たちを見下しているように見えるのだろうか。嫌味に見えてしまうのだろうか。
・そもそも興味を見せる姿勢自体が理解してもらえるものではないかもしれない。

今回は、自分の変化と自分が過去に書いたnoteへの1つのアンサーを書き留めた。

私の変化は1つ「諦め」という言葉が似合うのではないか。

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