北川民次生誕130年 ―民次とメキシコと瀬戸
北川民次生誕130年にあわせて、瀬戸市近辺で3つの展覧会が開催されている。
名古屋市美術館 『生誕130年記念 北川民次展 ―メキシコから日本へ』
瀬戸市美術館 『北川民次生誕130年記念 北川民次と久保貞次郎 ―真岡市コレクションを中心にー』
瀬戸信用金庫アートギャラリー『生誕130年記念 北川民次母子像展』
美術展に合わせて、田中敬一先生による講座「生誕130年~瀬戸を愛した北川民次~」が瀬戸市水南公民館で開かれた。3回にわたり、民次とメキシコ、民次と児童教育、民次と瀬戸の講義を受け、美術展を訪れる予習となった。
民次の生涯
「北川民次は瀬戸の画家」とよく耳にしてきた。瀬戸市にアトリエを構え、瀬戸の町の風景や陶工たちの絵を多く残している。そのため瀬戸市で生まれ育った人のような気がしていた。しかし瀬戸で活動したのは人生後半のことであった。青年時代から成年時代にあたる20歳~42歳をアメリカ、メキシコで過ごした。絵画を学び、画家たちと知り合い、画業の基を身につけたのだ。生涯を、地域と年齢で簡単にまとめると、次のようになる。
静岡(0~16歳) 1894(明治27年)静岡県に生まれる。静岡商業学校を卒業。
東京(16歳~20歳) 早稲田大学予科に入学、19歳で中退。
アメリカ(20歳~27歳) アメリカ在住の兄を頼って渡米。
メキシコ(27歳~42歳) 美術教員などをする。
東京(43歳~49歳) 帰国して東京で活動。
瀬戸市(49歳~95歳) 第二次世界大戦の疎開を機に瀬戸に移り住む。
アメリカからメキシコ初期
民次はアメリカ在住の兄を頼って渡米したのち、ニューヨークで働きながら夜学で絵を学ぶ。やがて都会の生活が合わないと感じ始める。「ニューヨークのような世界のるつぼは(中略)個人がけし粒ほどの小さな存在になってしまう」(『メキシコの誘惑』より。以下引用も同じ)。そこで民次は、米南部、キューバを経てメキシコへ渡った。キューバは「楽しかった」が「厚みがない」と感じた。一方メキシコは「内乱が終わったばかりでまだ硝煙の匂いがくすぶっていたのだが、ぼくにはそれすら魅力だった」。
メキシコ滞在初期は底辺の生活だった。キューバで盗難にあい、作品も荷物も失くし、ほぼ一文無しで到着したからだ。民次は「この2年間は放浪時代」であったと回想する。「皿洗い」「ルンペン」「キリスト教の聖画を売る行商人」など下層の暮らしを転々とした。しかし粗野でたくましいメキシコ庶民との付き合いは、むしろ民次の性に合っていた。『絵を描く子供たち』にはその頃の暮らしが楽しげに活写されている。
壁画
民次は再び絵を描き始める。
メキシコはメキシコ革命が終わり、荒廃した国土の復興期であった。政府は国家の統一と再建をはかる。国民の大部分は先住民インディオと、混血のメスティソ。インディオ達はスペイン語を話さず、部族ごとにそれぞれの言語と文化で素朴に暮らしていた。これらの人々を、スペイン語を公用語としたメキシコの国民としてまとめる教育が開始された。人口の8割が文盲であったため、屋外の巨大な絵、つまり壁画によってプロパガンダを行った。多くの壁画が制作され、民次は壁画の三巨匠、オロスコ、リベラ、シケイロスに刺激を受ける。
帰国後民次は壁画を手がけ、60年代の日本に壁画ブームをまきおこした。名古屋市美術館では、最近発見された旧カゴメビル壁画「TOMATO」の原画や、 我が瀬戸市立図書館を飾る壁画の原画(所蔵は瀬戸市美術館)も展示されている。
野外美術学校
もともと民次はニューヨーク時代から児童の美術教育に関心を持っていた。メキシコでは、芸術が人間形成に不可欠なものとして、政府による芸術教育が始められる。美術の分野では「野外美術学校」がユニークな形態で行われた。近隣の子どもが参加でき、好きな画材を無料で与えられ、屋外で自由に絵や版画を作成する。教師は一切指導せず、子どもの感性、自主性にまかせる。この方法で子供たちは、素朴で個性的な作品を制作した。子供たちの作品は『絵を描く子供たち』にも掲載されているが、のちにヨーロッパで展示され高い評価を得た。民次も子供たちの絵に大きく影響を受けた。
作風
民次の絵を見て、「歪んでいる」「大小関係がおかしい」と違和感を感じることがあった。これは「あえて」そのように描いているのだということが、田中先生と名古屋市美術館学芸員、勝田さんの解説で理解できた。
メキシコ着時の民次の絵は端正であった。しかし、子どもらの奔放で力強い描写は、民次の画風に影響を与えた。子どもの絵の特徴として、遠近法を無視する、対象をデフォルメする(自分が一番気になるものを大きく描くなど)がある。
もうひとつの影響は、メキシコ近代壁画である。この画面構成法は、異なる歴史的場面を、時間・空間を越えて一画面に入れ込むものだ。
これらの影響を受けた民次の作風は、「単なる写実ではない、対象の本質を捉え内面的表現を重視する、独自のリアリズムである」と田中先生が解説された。
今回の名古屋市美術館の顔である≪トラルパム霊園のお祭り≫には、メキシコの生と死のモチーフが散りばめられ、異なる時間と空間がひとつの絵にまとめられている。 ≪赤津陶工の家≫でも、陶器制作の過程が一画面に、遠近法も時間も無視して詰め込むように描き込まれている。≪鉛の兵隊(銃後の少女)≫の少女は姿勢も伸ばした腕も歪んでいて、うかない表情と共に、反戦の感情が感じられる。
結婚
野外美術学校に雇われた最初は、「小使(こづかい)」の身分で安月給だった。この頃の生活を綴った『絵を描く子供たち』には、給料が安いとぼやきながら、画家たちと呑んだり、陽気に騒ぐ独身生活がうかがえる。その後教員に昇格し、最後には校長を務める。結婚もした。メキシコにいた鉄野さんという日本人女性と結婚し、長女をさずかる。妻と長女は『トラルパム霊園のお祭り』の右側に描かれているという。瀬戸市美術館では、メキシコでの家族や家の写真を見ることができた。鉄野さんは丸い眼鏡の可愛らしい感じの女性だ。もし民次が鉄野さんと結婚しなければ、実家の瀬戸に疎開することもなく、住み着くこともなかっただろう。焼き物の町である瀬戸の風景や気質が民次の気に入ったこともあると思うのだが、鉄野さんと、民次をおおらかに受け入れた実家のおかげがなければ、「瀬戸の民次」はなかったはずだ。
瀬戸市のアトリエ
瀬戸市安戸町のアトリエは期間限定で公開されるが、瀬戸市美術館内に展示として再現されていた。壁いっぱいにアトリエ内部の写真が貼られて、本物のような臨場感がある。実物のイーゼルと椅子、筆をたくさん刺した壺なども展示されている。椅子は座面がとても低い。朴訥とした木造りで、民次のデザインだという。今にも奥から民次がひょいと現れ、作画の続きを始めそうな空間だった。
児童美術
帰国した民次は、日本でも児童美術の教育を行うため、久保貞次郎と学校設立の計画をするが、戦争のため実現しなかった。久保貞次郎は、民次と親交の深い美術評論家である。戦後の1949年には、名古屋市東山公園の動物園(現東山動植物園)で児童美術夏季講習会を行った。しかし、国民性の違いかメキシコほどうまくはいかず、3年で終了した。
民次が描いた絵本の原画は名古屋市美術館、瀬戸市美術館の両館で展示されている。「マハフノツボ(魔法の壺)」は瀬戸の陶器造りを描き、「うさぎのみみはなぜながい」はメキシコ民話をもとにしたものだ。どちらも民次が絵と文をかいた。初めて目にしたのは『ジャングル』で、生き生きとした動物たちの線画でカラフルだ。真岡市の所蔵である。瀬戸市美術館のポスターにも使われている。
真岡市
栃木県真岡市は久保貞次郎とゆかりがあり、民次の作品が多くコレクションされていることを今回初めて知った。真岡市でも、生誕130年に合わせて『北川民次展』『北川民次に出会った作家たち』が開催されており、瀬戸市美術館と所蔵品を一部交換して展示されている。真岡市の所蔵品は、いつも地元で見ている絵と違うもので目新しい。版画とその原版も多い。民次と久保貞次郎の関わりの深さが感じられた。
瀬戸信用金庫アートギャラリー
瀬戸信用金庫は、民次の絵を使ったカレンダーを毎年作成している。常設展では≪ばった≫や≪瀬戸はないっぱい≫などの民次の代表作をいつでも見ることができる。今回は併設展として、民次の母子像25点が展示されている。
※3館とも写真撮影可、SNS投稿可のため、画像を掲載しました
上杉あずき@STEP
参考文献
『北川民次展』2015 瀬戸市美術館・公益財団法人瀬戸市文化振興財団
『メキシコ・ルネサンス省察 壁画運動と野外美術学校』 田中敬一 発行あるむ
『絵を描く子供たち』 北川民次 岩波新書
『メキシコの誘惑』 北川民次 新潮社
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?