【小説】能あるワシに食べられた兎
大っ嫌いだ。
「お金、ここに置いておくから。チェックアウトの時間になったら払って出て。それまでゆっくりしてなよ」
本当に大っ嫌いだ。
「またいつでもお店においでよ。待ってるから」
大っ嫌い。全部、全部。もうなにもかも。
「じゃ。またね、ココアちゃん」
そう言って彼女は、にっこり笑って部屋を出た。
空っぽになった部屋を見渡して、ベッドに横たわる。
また私、ひとりぼっちだ。
それから4時間後、午前11時。チェックアウトを済ませてホテルを出る。
若干重たいキャリーケースをガラガラと引きながら、痛む足腰に鞭打って歩く。
体が痛むたびに、昨日のことを間近に感じる。
彼女の体温、彼女の匂い、彼女の目、彼女の指、彼女の口、彼女の…。
ついにシたんだ
今までずっと叶わなかった私の思いが、とうとう実ったんだ。
その嬉しさにそっと自分の指にキスをする。
この手の中には、つい数時間前まで彼女の手があった。この手が、彼女を覚えている。
彼女との出会いは1年ほど前。この時の私は元恋人に振られた直後で、それが精神面に大きく影響が出ていた。
ずっと一緒にいる、大切にする、結婚しよう…そんなくさい言葉を信じ続けて約2年間、彼と一緒にすごした。
本当に大切にしていたし、大切にされていると思っていたから、別れを切り出された時はこの状況を信じられなかった。
彼女と出会ったのは、そんな時だった。
「ねえねえ、どうしたの?泣いてるの?」
顔を上げると、彼女がいた。
センター分け前髪の黒髪ウルフカット、スラットした体型、高身長。中性的なメンズを彷彿とさせる彼女の姿は、かっこいいというよりも、美しいに等しかった。
「あれ?泣き止んだ。フフフ。可愛い」
"可愛い"
この言葉を言われて、こんなにも嬉しく感じたのはいったい何年ぶりだっただろうか。彼女の笑顔にドキッとしてしまう。
「ねえ、ちょっとついておいでよ」
そう言って彼女は私の手を引いて歩き始めた。
少し歩いて着いたのは、小さなカフェだった。中に入ると、カウンター席に案内された。この時、まだ彼女は私の手を引いていた。
「ここ、私のお店なんだよね」
彼女はそう言うとそっと手を離し、カウンターの内側に入っていった。
そうして話していくうちに、私は次第に彼女と打ち解けて、いつしかこのカフェに通うようになった。
最初のうちは週1回のペース。それが3日に1回、2日に1回、1日に3回…と、通う頻度が徐々に増えていった。
気がついたら、1日だけで数十万ものお金をこのカフェにつぎ込むようになっていた。いや、お店というよりは、彼女につぎ込んでいるという方が正しいだろう。
このカフェのメニューはかなり不思議で、ドリンクに高価なお酒が用意してあったり、水はお冷とフィリコスの2種類から選べる。
そういう商売にも見えかねない。
最初はただの悩み相談から始まったものが、いつしか養いたい、お布施をしてあげたい対象へと変化していった。
恋愛感情というものは、この時の私達には1ミリも存在していなかったと思う。
ある時彼女は、酒の場で私の手を握りながらこんなことを口にした。
「私が、男だったら良かったのに…」
そう言った彼女の目はすごく悲しそうで、切なくて、同時に暖かくも感じた。
その美しさに、私は虜になった。
そして心に誓った。この人とずっと一緒にいよう、と。
今思えば、これはただの客引きの言葉にすぎなかったのだろう。
私は彼女のために全力を尽くした。
手元にあるものはほとんど売りはらい、お金に変えた。一般企業と水商売をかけもち、バイト三昧な日々。体の仕事もした。
しかし、どんな状況にあっても、全く苦痛を感じることはなかった。
「ねえ、お願い。私を彼女にして」
ダメ元で彼女に言ったことがあった。彼女は明らかに動揺した態度を見せた後、しばらくの間黙ったままでいた。
断られる理由はないと思っていた。
「じゃあさ、私からもお願いしてもいいかな」
彼女が言った。
「1000万…あと1000万あれば…」
彼女が何を躊躇しているのかわからなかったが、残りのお金を集めさえすれば、私は今の状況から昇格できるのだと考えた。
早くこの関係を進めたかった。
友達以上恋人未満。家族以上夫婦未満。どこにも属さないこの関係の名前が、ほしくて仕方がなかった。
そうして頑張り続けて約1年。昨日ようやく、私は彼女のモノになれたのだ。
全額コンプリートした私を、彼女は泣きながら優しく抱きしめて、キスをしてくれた。さらには、最後まで…。
そして今に至る。
結ばれれば変われると思っていた。でも、案外そうでもなかったようだ。
突如、握りしめていたスマホから着信音が流れた。
「はい、もしもし」
「もしもし、ココアちゃん!?あんた今どこにおんの?」
電話の主は、彼女のカフェの料理担当をしているお姉さんだった。カフェによく出向く私を可愛がってくれる。この人はママ的な存在の人だ。
その声は荒く、何か焦っている様子だった。
「社長が帰って来てないんやけど、あんた一緒におらん!?実は今日、大事な人が来る言うてて、社長おらんとどないすんのいう状況なんよ」
「まだ帰ってないんですか?数時間前まで私と一緒に…」
"一緒にホテルにいた"
そう言いかけた時、私は目の前の光景に言葉がでなくなった。
「お誕生日おめでとう!」
「わあ!花束!?ありがとう、ココア!」
満面の笑みで薔薇の花束を渡す小さな可愛らしい女性と、それを心底嬉しそうに受け取るイケメンの姿が、私の目に飛び込んできた。
センター分け前髪の黒髪ウルフ、スラットした体型、高身長。
それにこの声、知っている。
「大事な人来る言うてたけど、それらしき人も今んとこ来てないし、ほんまになんやの?」
お姉さんは喋り続ける。
「私からもプレゼント!」
私が知っている声の主が女の子の手を握って話す。
「えっ!指輪!?こんな高価なもの、もらってもいいの!?ずっとお金ないって言ってたじゃない!」
「うん。だからお仕事いっぱい頑張った。ココアが喜んでくれるかなって思ってさ」
ココアって言うんだ…
小さくて可愛らしい相手の女性は、ココアと言うらしい。
私と同じ名前だったようで、つい反応してしまう。
呼び捨てなんだ…
同じ名前でも、そこは違ったらしい。
「その大事な人いうんが、名前なんやったかな?確か、ココア…やったと思うんやけど」
「そういうことだったんだ…」
この瞬間、全ての事柄が繋がった気がした。
それと同時に体の力が一気に抜け、スマホが音を立てて地面に落ちた。
それに気が付いたのか、カップルらしき2人がこちらに目を向けた。
「えっ、ココアちゃん!?」
彼女と目が合う。やはり、彼女だった。
「えっ、社長!?ココアちゃん、社長おんの!?声してんけど!」
お姉さんの声がまた荒くなった。
「なんで…」
状況がのみ込めず、私は後退りしてしてしまう。彼女も同時に私の方へ歩み寄ろうとする。
結ばれたと思っていた。
正式に付き合えたのだと思っていた。
目の前が、暗くなった。
「っココアちゃん!」
叫んで駆け寄ってくる彼女の姿を最後に、私は意識を手放した。
恋愛というのは実に複雑で、不愉快なものだ。
互いを愛し合い、もつれあい、ちぎれ、離れていく。
後から知ったのだが、彼女はレズビアンで、ホストをしていた経験もあったそうだ。そして、彼女と一緒にあの場にいた女性は、彼女の正式な交際相手だったらしい。
その交際相手がかなりな高級取りで、彼女は生活がだいぶん困窮していたらしい。そんな時に出会ったのが、私だった。
私にとってあの出会いはもはや運命と言えるほどであるが、彼女にとっては都合のいい財布が現れたにすぎない。
私の日々使うお金は全て、彼女の交際相手へと回っていたのだ。
まるで、狩をするタカ。いや、そんな大層なものではない。
狩をするワシと、狩られる兎のようである。