特別な日に来ていたお店は、いつ来てもやっぱり特別な日にしてくれた話。
「5分。ビール。」
この元上司からのショートメッセージを瞬時に理解できるのは、日本で俺くらいだろう。正解は、「あと5分で着くから、もうビールを頼んでおけ。」である。
「5分。ビール。」の「ビール」にあたる部分は、気分次第でハイボールに変わるケースもあるので注意が必要だ。
しかし、今日はその必要が無い。なぜなら「麦酒倶楽部POPEYE」に来ているからだ。店名通りビールの専門店であるこの店は、ドリンクメニューの9割以上がビールであり、ファーストオーダーでビールを頼まないのはナンセンスであろう。
ビール好きなら誰でも知っている両国にあるこの店は、
俺が「ここぞ」という時に来る「特別な店」だ。
誰かの誕生日祝い、仕事のプロジェクトで成功した時・・・・。
今日はなぜ来たのか。元上司に退社の報告をする為だ。
俺はこの冬、5年勤めた会社を退社する。
あと5分で着く元上司は新卒から約2年間俺が在籍していた部署の責任者だ。
元上司には「お話したいことがあります」とだけ伝え、時間を貰っている。
今日までに、この会社でお世話になった人への退社の報告は、
おおよそ完了していた。
しかし、元上司への報告は今日この日まで後回しになっていた。
というより、後回しにする他なかった。
俺は、元上司をかなり恐れている。それは、「恐怖」というより
「畏敬の念」に近い。
畏れ多く、今日まで元上司と話す機会を設けられなかったのだ。
元上司は、俺と年は8歳ほど離れており、その卓越したコミュニケーション能力と、並外れたバイタリティで、常に営業成績のトップ争いをしていた。
また、チーム・部下のことを常に観察しており、口数はそう多くは無いが、何かあれば必ず芯をついた助言・指摘をしてくるような人間であった。
口癖は「どういう意味だ?」であり、こちらが吟味されていない発言や、筋の通らない言動を取ると、必ず弱いところを付いてくる。元上司の前で、生半可な覚悟で仕事をすると、皆メッキが剥がされてしまう、それが俺の元上司に対する印象だ。
俺は今日、絶対に敵わない元上司を相手に「退社の報告」をしなければならない。
昨晩練ってきた「元上司用の退社の理由」を頭の中でもう一度だけ練習しようとした瞬間に、肩を叩かれた。
「おい、ビール来てねぇじゃねえか。」
元上司が来た。
「あ、あ!わ!・・・・すみません。ご無沙汰しております。」
俺は声を震わせながら、元上司のコートを受け取り、丁寧にハンガーにかけた。
「随分久しぶりじゃねぇか。元気か?少し太ったな。」
「おかげさまで、元気にやってます。」
頼んでいたビールがやっとくる。乾杯だ。
「うめぇなこのビール。なんか色んな味がするよ。」
「ありがとうございます。」
「おめぇのこと褒めてんじゃねえんだよ。」
良かった。やはりPOPEYEのビールは、誰にでも美味しいのだ。
「いやぁ、この前久しぶりにお前が1年目の時にしたミスの話をしたら、
大ウケだったよ。後にも先にも、あんなミスするのはお前ぐらいだわな。」
俺は新入社員の時、よくミスをしていた。
特にこのミスは俺だけではなく、元上司の進退にも関わる、今考えれば、核弾頭級のミスであったが、元上司の実績と信頼、社内的な政治能力の上手さもあり、犯したことからすれば割と優しい罰で事無きを得ていた。このエピソードは、俺と元上司の間で「親子の杯」のようなもので、事あるごとに話してくるのであった。
元上司は、積極性を持って動いた結果生じるミスは責めなかった。
そして、その俺の積極性を、元上司に買われているのも知っていた。
「今の若手は頭は良いんだけどなぁ。それだけじゃダメなんだ。分かるだろ?」
「はい。分かります。」
「・・・・何が分かるんだ?」
しまった。久しぶりの元上司との会話で、反射的に適当な回答をしてしまった。考えていない発言はすぐ見透かされる。
「行動をしない子が多いってことですか?」
「ちょっと違うんだよなぁ。」
これは元上司の得意技だ。部下に自分の考えを答えさせ、それを軽く否定する。俺は元上司の求める100%の回答を言えたことはこれまで一度も無い。
元上司は続けた。
「転びたく無い奴が多いんだよ。綺麗な成功を求めるのはいいが、失敗を恐れる奴ばっかなんだ。」
「なるほど。」
「失敗するくらい飛び抜けたことしないと、でかい成功は得られないよ。
分かるな?」
「分かります。」
「お前みたいな馬鹿が欲しいよ、俺のチームに。」
「ありがとうございます。そう言って頂いて光栄です。」
元上司の一杯目のビールが無くなりかけていた。
「次、何飲まれますか?」
「そんなにビールは詳しくねえからお前に任せるよ。」
「ありがとうございます。僕も一緒に頼んで良いですか?」
「ガンガン飲めよ」
POPEYEはガンガン飲む場所では無いのだ。
ビール一杯の値段もそれなりにする。いや、ガンガン飲んでも良いとは思うのだが、ビールを「味わいたい人」が多く来る場所だと俺は思っている。
元上司はPOPEYEをまだ理解していないようであるが、「ガンガン飲めよ」という言葉に甘んじ、俺も2杯目を頼んだ。
今日の元上司はいつになく、饒舌だ。
共通の話題は、昔一緒に働いていた時の話しか無いのだが、あの時どこに住んでいたか、誰が一番成績が良かったのか、よく行っていた飲み屋はどこか・・・・気がつけばビールは3杯4杯と進んでいる。
「ビール好きの聖地」で俺と元上司の2人は「ガンガン飲んでいた」。
徐々に酔っていくのを感じながら、俺は本題を切り出せないことに焦っていた。同時に、もどかしさも感じていた。
早く、退社することを言って楽になりたい・・・・!
喉仏くらいまで、練習していた言葉が押し寄せて来ているが、
元上司が絶妙に新しい思い出話を振ってきて、練習した「退社の理由」が
へそくらいまで引っ込む。
決して、元上司からは、俺が今日この場に誘った理由を聞いてこない。
元上司は、俺から本題を切り出すのを待っているのか。
だから意図的に、普段はしない昔話をここぞとばかりにしてきているのか。
元上司が来てから既に1時間は経とうとしていた。
色々な思いが頭の中をよぎり、俺はかなりテンパっていた。
焦り焦った挙句、
「す、すいません。本当に今日はすいません!」
何の脈絡も無い、訳の分からない謝罪をしてしまった。
が、結果としてこれが本題への切り口となった。
「何がすいませんなんだ?」
「実は、報告がありまして、、、、会社を辞めることにしました。」
元上司はゆっくりビールを口に含んだ。
「まあ、そんなところだとは思ったよ。」
「すいません。」
俺は聞かれてもいないが、練習してきた「退社の理由」を披露し始めた。
「3年前に今の部署に来まして、それから、」
「で、次は決まったのか?」
元上司が俺の言葉をさえぎる。
心がこもっていない言葉は見透かされる。
「・・・・実は決まってません。」
「ほう。」
「すいません。本来であれば次が決まった後に辞めるべきだと思うのですが」
「いや、お前の順番が正しいよ。」
「え」
ハッとした。
「だっておかしいだろ?全力で働いていたなら、転職活動なんてする暇無いんだよ。金貰っている以上、その会社に最後まで誠意を尽くすのが普通なんだよ。違うか?」
「・・・・そうだと思います。」
俺は、次の明確なビジョンが決まっていない状況で、会社を去ることに少なからず引け目を感じていた。
今日まで、数々の会社の人間に退社の報告をしても、
「次の会社が決まっていないのに辞めるのはおかしい」
というニュアンスの言葉を必ず受けており、正直退職の話をするのに嫌気が指していた。
そんな中で、俺の順番は正しいという元上司。
次の仕事を決める前に、今の仕事を辞めるという順番は正しいというのだ。
これまで思いも至らなかった考えだった。
「真剣にやったんだろ?最後まで真剣に仕事してたらお前の順番になるよ。だったら、取りあえず、辞めちまえよ。」
鼻の奥に、熱い、酸っぱい汁が流れた。
元上司の言う通りだった。俺は真剣に仕事に取り組んでいたし、
最後の最後まで、行き詰まっていた今の部署での仕事がどうにか好転しないかを考えていた。それなのに、報われない自分自身が辛かった。
それまで引け目に感じていた「次が決まっていないのに退職する」
という行為が肯定された気がした。だから涙が出そうになった。
「やりたいことくらいあるんだろ?」
「はい。あります。」
「書く」ことがやりたい。とは言えなかった。
言っても、元上司は深くは掘り下げてこないとも思った。
「まあ、1つ言えることがあるとすれば、他人からどう思われたいか、
っていう軸が助けになることもあるわな。」
「はい・・・・?」
「お前は突っ込みすぎだよ。自分がどうなりたいか。のイメージが強すぎる。そうすると行き詰まった時に、理想と違うから、折れちまうんだ。」
「他人からどう思われたいかだったら、楽なんだよ。その時々でどう見られたいかは変わるし、いくらでも追い求められるだろ?お前みたいな、馬鹿真面目は、他人からどう思われたいかっていうスケベ心で動いた方がちょうどいいんだわ。」
元上司は続ける。
「ま、それが強すぎてもダメなんだけどな。要はバランスだよ。」
「ありがとうございます。頑張ります。」
俺は、元上司が言いたいことの全ては理解出来ていないが、
心臓が「バクンっ!」と一鳴りし、少し鼓動が変わったことだけは気づいた。
そこから先は、俺が知っている普段の口数が少ない元上司に戻っていた。
POPEYEに来ると必ず最後に一杯飲むビールがある。
「ラブポーション.No9」というビールだ。
「No9」という通り、アルコール度数が「9度」であり、一般的なビールよりやや度数が高い。
俺はこのやや強い度数のビールの「深み」、そして「味わい深さ」を感じながら胃に流し込むと、明日から新たな気持ちで頑張れる気がする。
お祝いで来た時も、仕事で頑張ったご褒美で来た時も、必ず最後に一杯飲んできた。
俺にとっては儀式みたいなものだ。
が、残念なことに今日は無いらしい。
代わりに「KOKU バーレーワイン」というビールを勧められた。
「最後にもう一杯だけ頼んでいいですか?」
「いけよ」
味わいは「ラブポーション.No9」にかなり似ている。
「強えな!このビール」
「これがいいんですよ!」
やっぱりPOPEYEにして良かった。
俺は「KOKU バーレーワイン」を飲み、
若干胃が熱くなるのを感じながら、今は間違いなく人生の転機であり、
そして決して後ろ向きでは無いのではないかと考えていた。
いつもPOPEYEは特別な日に来ていた。
今日もPOPEYEは特別な日にしてくれた。
———俺が、これからも頑張ることが出来るかもしれないと思えた日。
これからも特別な日はPOPEYEで迎えたい。
POPEYEを後にし、駅に向かった。
両国駅前には爽やかな冬の風が吹いていて、火照った顔を冷ますにはちょうど良かった。
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