シャボン玉
私がやっているバイトは会社からタクシーが出ていて、家の前まで送ってくれる。帰る時間は深夜。私の家はいつも停めてもらう車線の反対側で、降りてから横断歩道のない道路を横切って帰宅する。
その日も、バイトが終わって家の前でタクシーを停めてもらった。少しだけ左右を確認して、歩いて道路を横切る。眠気はMaxで、両耳にはイヤホン。フラフラ歩きながら、ふと左側から車のライトを感じた。ぼんやりした頭で、まあ速度を落としてくれるだろうと思っていた。しかし車はそのままのスピードで走ってきて、結局私はギリギリのところで小走りになって車を避けた。その時は(危な~)と思っただけで、それよりも早く寝たいという気持ちの方が勝ったが、家に帰ってお風呂に入り、少しスッキリした頭で思い返したらなかなかギリギリな状況だった。
もしあそこで私が轢かれていたら。もしそのまま死んだら。
そんなことが頭を巡った。もしあそこで私が死んでいたら、お母さんとの最後の会話は思い出せもしなぐらいたわいも無いものだった。お父さんとの最後の会話は、いつ話したか思いだせないぐらい前だった。仲良しのあの子との最後のLINEは「急に塩!」だった。クラスメイトのあの友達に最後に放った言葉は「魚はちょと…」というツイッターのリプライだったし、最近よく話すようになったクラスのあの子との最後の会話は「生理前ってムラムラしない?」というインスタのDMで、尊敬するあの人との最後の会話は「綿にしましょう!」だった。どれも本当に本当にくだらない話で、でもそんなのが私の最後の言葉になるところだった。
死って、本当にすぐ近くにあって、いきなりやって来る。
私の祖母は私が中学生の時に亡くなっている。その頃は入退院を繰り返していて、私はお見舞いに行かなきゃな~と思いつつも、学校がありなかなか行けないでいたし、心のどこかではまたすぐに退院するだろうと思っていた。
今日お見舞いに行こう。祖母が亡くなったのはそう思っていた日だった。看護婦さん曰く、お昼までは普通におしゃべりをしていて、看護婦さんがお昼ご飯の用意をしに行っている間に亡くなったそうだ。祖母の死に誰も立ち会えなかった。私には後悔ばかり残っている。
ツイッターで「命はシャボン玉みたいに急に消える」というツイートを見た。本当にそう思う。
大切な家族が、明日いなくなるかもしれない。毎日一緒に笑っていたあの友達が明日にはもういないかもしれない。まだ大好きだと伝えていなかったあの人に、明日にはもう会えないかもしれない。もしかしたら相手がいなくなるんじゃなくて、私が今日の帰りに交通事故に遭うかもしれない。歩いていたら上から工事の鉄材が降って来るかもしれない。
まあ毎日そんなことを考えて、そんなことに怯えて生活なんて出来ないけど、私の命もあの人の命もシャボン玉みたいにある日急にパッと消えてしまうかもしれない。
私の両親は、90歳まで生きてくれたとしてもあと一緒にいれる時間は30年を切っている。ほとんど毎日一緒に居るクラスメイトたちとも、あと数ヶ月したら卒業して簡単に会えなくなる。今のこの環境が、この時間がずっと続くような気がして居るけど、思っているよりも時間は残っていないし、その時間ももしかしたら急に0になるかもしれない。
そう思うと、もう少し素直に生きて行こうと思えた。やりたいことはやって、伝えたい気持ちは伝える。時々でもいいから、そうやって思い出して気にかけて生きていきたい。
なんて思った。そんな夜。