白刃は夜舟で -就任一周年振り返り 2-
注意書
これは後に自分が更に知識を得た時に振り返って
「こんなこと言ってら」と感じるための覚書です。
素人意見は間違えてれば間違えてるほど良いとは思いませんか?
…思わないか。
まあまだ刀剣の各部名称すらまともに言えないけれど、
せっかく鑑賞しているのだからそろそろ感想くらいは言えるようになりたい。
あわよくば文字に起こして冷静になって、更に疑問を持てるようになりたい。
そういう文章です。
本書
熊本に歌仙兼定と同田貫を見に行った半月後、私は京都にいた。
和泉守兼定コラボの新撰組展が行われたのである。之定を見た以上、どうしても行かなければならないと思った。同時期に本能寺で復元 薬研藤四郎の展示も開かれていたので、それも見たかった。
前著で述べた通り、私は歴史に浅いので強いて言えば新撰組の存在は、銀魂で聞いた事があるくらいだ。つまりは知識がほぼ皆無と言っても間違いない。
この展示で、私は初めて土方家が薬屋だったのだと知る。だから兼さんは手入れの時「薬でも塗っておけば〜」と言うのだとようやく理解した。
さて、目当ての和泉守兼定は、第一印象に刀身がでかい!と思った。
侍の時代の終わり、とは兼さんの言葉だが、持ち主を変えて擦り上げが行われる事もなく、土方歳三に合った状態でずっと残っているのだと、その大ぶりの姿が教えてくれる。反りの少ないスラっとした刀身が一際存在感を放っていた。
この時、さほど鋒に目が行かなかったと思う。何故かはもう分からないが、同じ和泉守兼定であれ別人の作である事を感じ取ったのかもしれない。とにかくこの和泉守兼定は刀身が魅力的だと思った。熊本遠征でもそうした様に、目線を落として刃紋を茎付近から鋒にかけて眺める。乱れ刃が不規則に波打つ度に、楽しさに似た感情が湧き上がった。前回は何も分からなかったが、大きな刀身に描かれた模様は見応えがあり面白さがほんの少し分かった気がした。
新撰組隊員が所持していた刀剣リストに、堀川国広の文字があった。もちろん刀剣乱舞では土方歳三の愛刀として実装されているので当然と言えば当然だが、号の付けられていないこの2口はやはり並んでいてこそ互いに証明し合っているのだろう。この堀川国広が贋作であった可能性という話も聞いていたので、殊更に。
そういえば11代目兼定作刀、殆ど目にしない。2代目兼定はよく展示されているので、これは貴重な経験だったのだと振り返って思う。
場所を変えて本能寺へ。
復元 薬研藤四郎はガラスケースに入れられ、手に取って間近で見る事が出来た。
鑑賞に際しての作法が書かれており、「手に取る前にまず息を整えましょう」「本来は斬れるものだと思って扱いましょう」等の文言が、緩んでいた背筋を正す。
今回切り替え(横手)のない刀を初めて見たので、先端に向かって滑らかに収縮されていく曲線に目が奪われた。その印象的な鋭さに、触れていないのに肌を指す様なチクチクとした感覚が頭を過ぎる。鉄の薬研を貫いた、が名の由来らしい本歌はではどれほどまでに鋭かったのだろうと想いを馳せる。
ケースを持ち上げて視線の直線上に刀を持ってくれば、乱れのない波紋がまっすぐに光を反射した。生まれたばかりの刀身は傷一つない。戦を知らず、それでいて本歌の美しさを伝えるこの刀は、次の人の手に取られるのだろう。
目的にしていた刀以外に思わぬ出会いもあった。
新撰組展に、長谷部国重が展示されていたのである。
今となっては記憶が朧げだが、短刀だった。説明書きには”銘 国重”としか表記されていなかったが、茎には長谷部国重の銘。へし切長谷部推しで良かった。気付けて良かった。新撰組は様々なメディアが題材にしているので、刀剣鑑賞目的ではない客層も沢山いて、長谷部国重の前にはさほど人が居らず、ゆっくり見られた。にも関わらず肝心の姿は何も思い出せない。
当時の私は鋒が丸いとTwitterに呟いているので、小鋒だったのだろうなと思う。拵がゴツいとも残していたので、初めて柄糸が巻かれていない鮫皮を見たのだと思う。正直今も鮫皮が剥き出しの柄は戦いにおいて握り辛くないのだろうか、痛くないのだろうかと思ってしまう。
復元 薬研藤四郎の展示にも、2代目兼定の刀が展示されていた。しかし私はTwitterに感想を殆ど残していない。何故?もっと感想は残すべきだ。困るのは自分だぞ。ほら今困ってるから。
之定の鋒が好きだ、とだけ言っていたのでやはり刀身に目が奪われた11代目とは何かが違ったのだろう。
並べて、森蘭丸の大太刀も飾られていた。今見れば刀工の名前にも興味が向くだろうが…。大太刀を目にしたのも初であったので、大きさに驚いたことだけ頭に焼き付いている。森蘭丸は、と言うより昔の日本人は低身長なイメージが強かったので、こんなに大きな刀を振り回していたのかと衝撃を受けた。
京都遠征まとめの雑談。
これまでも京都へ来た事は何度かあったし、歴史に疎い私でも流石に織田信長、そして本能寺は知っている。それでも本能寺へ行きたいと思った事は生まれて初めてだった。
人並みに知っていると思っていた情報へ更に深く踏み込んで知りたいと思う事はなかった。だから、燃えたと言う情報だけあった本能寺が、人の流れで賑わう商店街の一角に突然現れるとは知らなんだ。マップを頼りに辿り着いた時、大分驚いたし看板とマップを二度見した。(本能寺の変からは移転され焼失再建を繰り返しているのを後に知る)
寺も綺麗に再建されていて、時期も良かったのか観光客も殆ど居らず、説法を聞きに来たと思しき人だけがそこにいた。有名だから混んでいるだろうと勝手なイメージを抱いていた事に反省しつつも足を踏み入れて尚、本当にここで合ってる!?と疑いの念が拭えなかった。
織田信長が下戸で、酒の代わりに茶を好んでいたというのを、展示の説明書きで知る。茶道をほんの少し歯の先程度に齧った私は、刀剣乱舞で酒飲みの信長の刀を知った私は、数々の茶器が並ぶショーケースに興味が引かれた。
自分が知っている情報が興味を抱く足掛かりになるのだと、遠征をしていて痛感する。何せ自分には全く関係ないと思っていたジャンルにこうも夢中になっているのだから、関心とは不思議なものである。
本音を言えば、私はまだまだ掛け軸や書物には興味が持てそうに無い。
文系名刀を近侍とする審神者なのだから、もっと色んな方面へ目を向けたいものだ。
次回は大阪へ石切丸本歌と写しを見に遠征した時の振り返りをする。
京都遠征振り返り
以上。