中途半端に論じます

どうも

手遊びモンスター

でお馴染みの人間でございます

エッセイというのは非常に書くのが難しい。
特に、ある程度テーマを絞られているときに書くエッセイは。

エッセイは詩や小説に比べてルールも、伏線も、体系的な知識も必要としない。その時その時に頭の中で湧き出てきた声を文字に起こすだけの簡単な作業だ。それに職業作家でもない限り、エッセイの内容というものが諸知識人や大衆に見られ批評されることも基本的にはないし、そもそも商業的成功を必要としていない。私にとっては完全な自己満足である。
しかし自己満足であるからこそ、難しいのだ。

私は基本的に自分が作るものはその規模がどのようなものであれ、またその媒体が何であれ、常に世界中の人間80億人(インド人増えすぎ!)に見られると思って作っている。とんだ自意識過剰の勘違い自慰行為カリスマぶった凡人クソ野郎(加えてハゲ)と思われても仕方がない。でも本当にそう思っているのである。このnoteに投稿する文章も、3人しかフォロワーのいない(しかも全員知ってる人)Twitterのつぶやきも、内々でしか使わない誕生日おめでとうの動画も、常にその対象は全世界である。我ながらええカッコしいなことを言うなと思うが、もうこれは本気でそう思っているが以上、これ以下の表現が思いつかないのである。

というか、そうでも思わないとやっていられない。少人数の人だけに向けて披露するつもりだと、確実に私は妥協してしまう。身内ネタや、その場しのぎの付け焼刃を披露してしまう。人は本当に堕落しきった生き物だ(少なくとも大阪人は)。

話がかなり反復横跳びしているが、エッセイに関して。エッセイというものは思ったことを書けばよいのだが、裏を返せば思わないと書けないのである。小説や劇とはここが決定的に違う。(詩はかなりエッセイに近いが、エッセイに比べるとかなり狭い門だと思う。形式も、取り扱う人間も。)

小説や劇はあくまで想像上の世界を描いたものだ。勿論、そのベースには作者の体験や現実の出来事などが存在する事もあるが、そのほとんどは作者の頭の中にしか存在しない世界を現実の世界に無理矢理持ってきただけなのである。しかし、それらは想像上の世界の出来事である、という前提を作者・読者ともに理解しているから、幾分かタチは良い。
対してエッセイは、逆のプロセスである。現実の世界に存在するものを一度作者の頭の中の世界に持ってきて、再三好きなように脚色・曲解・加工しつくした後、まるで天然素材100%自然由来オーガニック無機質そのまんまみたいなツラで現実の世界に輸出しているのである。これほど卑怯で姑息な輩の存在を、我々は果たして野放しにしたままで良いのだろうか。しかし、せざるを得ない。

つまりエッセイは現実を物語に仕立て上げているのである。エッセイが現実の切り取りみたいな風潮は全くの間違いだ。
ありのままはありのままの中でしか存在し得ないのである。

さて、色々言ったが、結局私が全・クリエイティブなことをしている人間に言いたいことは次の事である。

常に宮崎駿に見られてると思え!

文:鈴木敏夫一家

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