=SUM(B2:B5)
どうも
グレイトフル・ファックマン
でお馴染みの者です
最近はもっぱら愛について考えることが多くてですね
まあ愛といっても恋愛に留まらず、友愛とか人類愛とかね
で、少なくとも恋愛に関して、言い換えるならば異性への性的な愛情に関しての一つの結論が出たのでここに記しておこうと思う
まず、そもそも愛について考えるようになったきっかけは、己の失恋なんですよ。具体的な内容は割愛しますけど、簡単に言うと付き合っていた人が浮気をしていて別れることになったというね、しかもその浮気相手の方と今付き合っているという
人間ってやはり原体験を基にしてしか深く込み入った思考の中には入って行かれへんのやなとは今回感じたね
まあそれはともかく
結論から言うと、少なくとも私にとって恋愛とはつまり愛することなんだなと思ったわけだ
決して愛される事ではないんだ
それはあくまでも副次的な見返りであって、おまけのようなもの
愛されることがその人を愛することを加速することはあっても、愛されることがまず最初に来るような恋愛は、人を幸せにはしないんだよ
なんというか、俺は自己中なんだよ、いわゆる
自己中ってことはつまり、自分が良ければそれでいいわけ
ってことは、自分がしたいことが出来てればよくて、それはつまり愛されるというよりも己が選択して主体的に愛することに恋愛というものへの魅力を感じ入ってるっていうことだ
愛されたから愛するっていうのはつまり、誰かのために愛してるんだよ。でもそれは、自分のためではないってこと。
勿論そう単純な話ではないし、実際問題愛されることを契機として愛し始めることもある(今回もそうだった)から、一概にそうとはいえないんだけど
ただ今回私が直面した問題に対しては、この結論が納得したかな
別れが訪れた後もしばらく縋っていたのは、愛する対象を見つけられなかったから。しかし、愛する対象がぼんやりと見えてきた今となっては、そのような苦しみとか執着はかなり薄まってきたのだ。
The Beatlesの有名な曲に、ALL YOU NEED IS LOVEというものがある。
あれはつまり何かを、誰かを主体的に愛することで人間は幸せになれるという事だ。
決して、愛されること、つまりLOVEを浴びることが幸せになる手段ではない。
キリスト教が説く、実践的な愛というものもこれに近いような気がする。
こういう風に愛することについて考えれば考えるほど、前の彼女に対する憎しみや怒りもなくなってきたし、むしろ感謝できるようになってきた。
愛が永遠のものであるというのは少なくともそれが実現されるまでは幻想とみなすべきなのだ。
そのうえで刹那的でありながら愛を与えてくれたという、そして何より愛させてくれたことへの感謝と、己自身を尊重した事への尊敬の念。この2つが今では私の彼女への想いの根幹をなしている。
人間は不思議と誰かを愛せずにはいられない生き物なのだ。
時に我々は自分の与えた愛に見返りが存在しないと、己の愛に価値はないのだと嘆き、苦しむ。
しかし他者にとって己の愛に価値が無いことは当たり前なのだ。
愛とは決して他者の為ではなく、己の幸せを最優先として与えられるものである。その結果、人は己の幸せを維持、増幅させるために、その自己中心的な愛を他者の為に用いようとする。一見するとそれは相手の為に愛しているようにも周りの目からは捉えられるが、結局のところ人間は己の存在のために愛し、また愛するために存在しているのである。
文:岡田斗司夫無料版