マンデーレイシストショー

どうも

ベーブルース大好きクラブ

でお馴染みの人間でございます

野球部は色彩感覚がない

根拠を述べよう。

第1に、野球部が投稿するInstagramの写真やストーリーは全てあの独特のフィルターにかけられている。ちょっと青みがかったフィルターだ。野球部あがりの人間独特の、やや青みがかった、日常。野球部の人間はそれらを美の象徴としているが、非野球部の人間からすると、「何そのフィルター中学生?」「ダッサ」という意見しか出てこない。
あのフィルターの正式な名前は何なのだろうか。仮にあのフィルターを他人に説明するとして、正式なフィルター名よりもむしろ、「野球部のフィルター」と言って逆引きした方が伝わりやすいような気もする。

次に挙げられる根拠としては、野球部の人間の服装だ。野球部の人間、あるいはあがりたての人間の服装は過度なピチ白T信仰、あるいはグレーのジャージ信仰によって支えられている。野球部のコーディネートと基本はモノトーン、つまり白と黒だ。手を伸ばしたとて中間色であるグレーだ。モノトーンはファッションの基本であるという事に関しては大いに賛成だが、いうなれば無難、ハッキリ言ってしまうと遊び心やオリジナリティがなくnot interesting。
白か黒か物事をハッキリ決めつけるような奴らだからだろうか。もしくは半グレの道へと進むからであろうか?いや、これにも明確な理由がある。

野球部というのは、基本的に坊主だ。それは遥か昔より脈々と受け継がれてきた文化だ。坊主なくして野球を語ることはあってはならない。しかし当たり前の話ではあるが、坊主というのはオシャレから最も程遠い髪型である。同世代の男達がやれワックスだやれパーマだので着々と自分なりのオシャレのスタイルを模索し垢抜けていく中、野球部は高校3年生の夏以降というあまりにも遅すぎる時間帯からしか色気付くことが出来ない。中学時代から継続して野球を続けてきた人間はもっと悲惨だ。中学の約2年半坊主で、高校生に上がるまでの残り半年で髪の愉しさを知ってしまった。そしてまた坊主へと、振り出しへと戻ってしまった。1度でも極上の大麻の味を知ってしまうと、シケた葉っぱで満足出来る者はそあいない。
さて、貴重な青春の8割強を坊主として過ごさざるを得ない人間が目指すべきスタイルとは何だろうか?私達が俳優やモデルを見てそのスタイルを真似するように、彼らもその道のカリスマを模倣する。では坊主界のカリスマとは一体誰なのか?坊主本来の意味合いでとるなら空海や最澄であるだろうが、髪型的ニュアンスの坊主、それも日本人となると1人しかいない。

市川海老蔵だ。

ここで、海老蔵のファッションを見て欲しい。


紛うことなき野球部だ。ハゲの志向するプレースタイルそのものだ。
白ピチT、黒短パン、こんがり焼けた肌にサンダル。
どこをどう切り抜いても夏休みの野球部そのものである。たまのオフに海に遊びにきましたという場面で何度も見た事がある姿形だ。
そう、つまり野球部という生き物は知らず知らずのうちに市川海老蔵というカリスマ的存在を追随しているのだ。いや、市川海老蔵ですら、自分自身の中に無意識に埋め込まれた何かに従っているだけなのかもしれない。

従って、これらの理由から私は、野球部という生き物はお世辞にも色彩感覚に秀でているとは言えない、と主張する。しかしそれらは決して生まれもっての脆弱さではない。彼らを取り巻く環境がそうしたのだ。彼ら自身には何の非もない。それに、私自身ここまで述べておいてはなんだが、色彩感覚が弱い事を何ら責めるつもりもないし、悪いことだとは全く思っていない。
彼らが本当にすべきことはバット振る事であり、色彩感覚のバッドを気にして人生を棒に振る事ではないのだから。さあ今日もそのグローブを手にしてモノクロームの世界へと飛び込もう。ただ突き進め。真っ直ぐに生きていけばどんな人生のカーブが現れてもその両手に抱えたナイフとフォークで道を切り開いていけるはずだ。人生のスライダーはいつでもフルマックス。たった1つ、自分の中で貫き通すべき芯があれば良い。ベースは変えるな。シュートなんか何本外したって良い。中途半端な結果に終わったら、君自身の真価が発揮できないまま終わってしまう。それはいくらなんでもアウトだ。ストロングに、楽に、つまりスト楽に生きよう。そうしていれば、幸せな未来はなきっとな、来る。さあ、明日に向かってプレイボール


文: R指定

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