どこかに根付くまでの過程が大事という話 (親子関係のエッセイ)
子供の頃、親にあまり関心を持たれていないのだと思っていた。成長してみればそういうわけでもないのだろうとわかったけど、子供の頃は案外本気でそう思っていたのだ。事実がどうであれ、思っていたということが肝心なのだろう。
例えば私はよその子が知っているような「習慣」をあまり知らない。ただなんとなくそういうものなのだろうな、と知識で知っているだけで、家で身につけたものというのがほとんどない。寝る前に歯を磨くとか、玄関の靴をそろえるとか、知識としては持っていたけど、毎日欠かさず繰り返していること、というのがほとんどなかった。小児科でシロップに溶いて処方されていた抗生物質も飲み切った覚えがない。飲んだり飲まなかったり、磨いたり磨かなかったり、片付けなんか親から注意されてもなかなかやらなかった。
数多くある私が知らなかったことの一つに、出かけるときに目的地やおおよその帰宅時間を家族に知らせておくこと、というのがある。子供の頃母にそんなことを尋ねられた記憶がない。今でも誰にも何も告げずに何かをしようとする癖がある。
大人になった今でも無意味に外出したりする癖があるのだけど、一度夜にふらりと家を出たのを夫に見つかってびっくりされたことがある。向こうとしては「実家に帰ります」的なシチュエーションを想像したのかもしれない。でも財布もスマホも家に置いているのだからわかりそうなものだ。とにかく私は何も持たずに、行く先も決めずに突発的に動くことが好きだったのだ。でも夫の焦った顔を見て初めて、どうもなにか問題のある行動らしい、ということに気がついた。それ以来控えるようにしている。いつだったか、主婦の女性が夜中に外出して事件に巻き込まれた事件で、被害者をバッシングする向きがあったことも頭にあった。どうにも世の中には女性が夜遅くにひとりで外出するものではない、という暗黙の了解のようなものがあるらしい。私はこの「不文律」みたいなものを把握するのがとても苦手だ。
言われてみれば子供の頃も、夜中に勝手に家を抜け出したのが親に見つかって騒ぎになったことがあったのだった。私としては繁華街に出かけているわけでも、散財しているわけでも体を売っているわけでもないから特に問題行動をとっているという自覚はまったくなかった。夜道をひとりであるくと思春期特有のイライラが溶けてなくなるような気がする。自分のことは何でも自分で決められるような気がしてくるのだ。
いざ自分が子供を持ってみても、子供が出掛けることに無頓着なのだ。どこに出かけているかとか、誰と遊んでいるかとかにも関心を払ったことがなかった。周りのお母さんたちの会話を聞いて、ようやく、親は自分の子どもが普段どこで遊んでいるかとか、誰と親しくしているかを把握してるものだ、と知ったくらいだった。私はいつも一人で校区内のすみからすみまでをふらふらしている幼児だったので、すこし驚いた。
確かにテレビや新聞で、ときどき子供が行方不明になったり事件に巻き込まれたりするのを見る。なるほど、子供の行動範囲や交際範囲を把握しておくというのも親として必要なのだろうか。そんなことを考えている合間にも夫は子供にしつこく「どこへ誰と遊びに行って何時に帰るつもりなのか」と聞いていた。私から生まれた子供なので、同じように放浪癖を持つのではないかと不安だったのかもしれない。私ははじめ、夫の様子を見て「過保護だなぁ」と驚いた。夫はきっと私のことを「無関心すぎる」と思っていたに違いない。
仕方がないので意識して、子供に普段どこで遊んでいるのかとか、誰と親しくしてるのかとか、何時に帰るつもりなにかとかをいちいち確認するようにした。するとだんだんそれが習慣になって、聞くことが不自然に思わなくなった。更に回数を重ねると、子供の方から勝手に言うようになってきた。不思議なものだと思う。子供の頃は私は「習慣」を身につけられない不出来な子だった。実際には大人になってみると、時間はかかるが「身につけられない」わけではないらしい。自分のことなのにまだまだ知らないことがあるみたいだ。子供と居ると、自分の未知の面がいいところも悪いところも、たくさん見えてくる気がする。