獣になれない私たち。感想

けもなれ、最終回まで見た。膠着していた問題に見切りをつけ、ふたりで手を取り合って変化に向かう。というラストだった。

私は朱里が初めて晶の家に泊まる回が好きだ。晶が朱里に向かって、あなたは私だったかもしれない。と言う回。ふたりとも同じ男性と付き合って、分れた。過去のテレビドラマにありがちなのは、お互いに憎み合って分断される女の姿の描写。女ってこえーな!とかいう浅い感想を視聴者に呟かせるだけの、シーン。

でもふたりは違った。ここに描かれているのはすごく単純な事実だ。心を病んで家にこもりがちになった女と、それから逃げるように、他の女に救いを求める男。男に対する過剰な追及も、女たちによるキャットファイトもなかった。ある意味すごく、リアルだったと思う。

女が泣けば男は逃げる 取り返すような無粋はしないことさ

東京事変の雪国の歌詞を思い出した。泣く女から逃げる男。馴染みの女が泣き、若く美しい女に逃げる男。古典的な描写だ。多くは悲劇や喜劇として描かれることが多かった。

京谷も典型的な逃げる男だった。しかもわきが甘くて逃げきれない。
朱里を家に住まわせたまま晶と交際を始めてしまう。

晶は常に笑顔の女を求められて辛かった、とこぼす。朱里は自分が京谷にとっての笑顔の女になりたかった。とこぼす。

私たちおんなは、泣けば感情的だ、と眉を顰められ、怒れば情緒不安定、とそしられ、哀しめばメンヘラ、と罵られ、笑顔で受け流す対応しか求められない。ことが多い。傍観者からだけではない、親密な相手からも同じような反応を示される。

泣いた女から逃れた男はどうするのだろう。他の女に癒しを求めて、それから? 結局プロトタイプの「泣く女」を量産してしまうのではないだろうか? 可愛くなくて何が悪いんじゃ、ぼけ。と京谷に晶が放ったセリフは、元は同僚の夢子のセリフだった。それが晶の口から出たとき、なんだかほっとした。


人間には喜怒哀楽、異なった感情が搭載されている。
晶の勤め先の社長、九十九は「怒り」に特化した人間だった。社内での晶の「笑顔」、社長の「怒り」、社員の「怯え」「反発」「諦め」。
オフィスの中ではバランスが取れている。というか、誰かが極端に偏った表出をすると、他の誰かがバランスを取るためにいずれかの感情を殺す。

社長の「怒り」の裏には弱さが隠蔽されているし、晶の「笑顔」の裏には帰る場所のなさや、不安が隠蔽されている。

不安や、他者に対する不信感。それらが強調されているのが朱里というキャラクターだ。朱里は京谷や晶、あるいは九十九の影だ。

古典的な悲劇がなぜ悲劇に終わっていたのか、それは、影との融和を拒んでいたからではないだろうか。だから多くの場合、物語は破綻を迎える。死や破滅や事故、示唆されるのは断絶や拒絶。

けもなれは影との融和を図った物語と捉えることはできないだろうか。

恒星たち兄弟。
朱里と晶。
晶と呉羽。

影と光。
相いれないはずの。でも決して切り離すことができない、存在。

物理的には光と影は相いれないが、心理学的には違うのかもしれない。影を殺さない。闇に葬らない。自分のものとして認めること。ユングがこれに近いことを過去に説いてた気がする。男性性や、女性性、光と影、異なる要素を取り入れて、人格は成熟するものらしい。

物語においては融和は何を意味するのだろうか? 融和がもたらす帰結はドラマチックではないし、祝福も畏怖も軽蔑も産まない。なぜならそれは日常だからだ。

抑圧された感情の行き場。二十一世紀の私たちはそれを知るために物語を欲しているのではないだろうか? 物語の進む方向が、どことも明示されないのは、すべての結末を私たちの手元にもう一度取り戻させるための、語り手の模索を意味しているのではないだろうか?

勝ちとか負けとかいいとか悪いではない、物語の意味を。
私たちは探している最中なのではないだろうか?

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