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BFC3ジャッジ文とちょっとした補足
これはひろく誤解されていることなのだがバトラーは生物学的な性差を否定してはいない。ジェンダーが虚構で人間は全くの白紙で生まれてくる、完全な中性の状態がある、とも主張していない。
— 阿瀬みち (@aze_michi) October 30, 2021
彼女が著書のなかでしたことは、父権的だと散々批判されてきた精神分析の理論を使って男女二分論を無化したことだ。
— 阿瀬みち (@aze_michi) October 30, 2021
ジェンダーを主題にしたフィクションの中で極端に性差を強調したり全く逆に性役割が逆転した世界が描かれるのは、世界がこうあるべきだと主張するためではない。別の可能性に人々の目を開かせるために「ずらし」つまり脱構築が行われている
— 阿瀬みち (@aze_michi) October 30, 2021
今現在の常識も、常にそうあるべきではなく、他の可能性に開かれている。フィクションは現実の虚構性を我々の眼前に暴き出すために「ずれた」世界が描出される。あなたがたの硬直化した思考をほぐすために。
— 阿瀬みち (@aze_michi) October 30, 2021
ブンゲイ・ファイトクラブという、文芸作品の評価を競い合い優勝者を決めるというイベントに、評価する側で当選して出場することになりました。バトラーにまつわる作文を評価していただいたようです。驚き。
ブンゲイファイトクラブ3 ジャッジ応募文
『社会構築物としての小説を読む』/阿瀬みち
ジュディス・バトラーが『ジェンダー・トラブル』の中で明らかにしたように、ジェンダーというのは社会的な構築物である。小説は様々な社会的コードを利用し・共栄し・ハックし・書き換える形で書かれている。BFC初回の蕪木Q平『来た!コダック』の語りは未熟で社会化されていない少女のコードを利用して書かれているし、読む方もそれを利用して読み解く。コナンドイルは『来た!コダック』の少女のように語らない。絶対に。
今日使用している漢字には「嫁」「嫌」「好」など当時の人たちの社会構造がそのまま現代に受け継がれている。女偏の漢字と比べると男偏の漢字で一般的に使用されているものは「虜」や「甥」などわずかだ。男がわざわざ名指されるとき、捕らわれた男であったり生まれたばかりの名のない親類の男であったり、他者として彼らが「わたしたち」の前に現れるときだ。普段「男たち」は一人の人間として、人として社会に受け入れられている。グレイソン・ペリーが 『男らしさの終焉』というエッセイのなかで「デフォルトマン」と名付けたように、一人前の男は自己弁護や説明を求められない。大文字の主語を使って社会に向かって語り掛けることすら許されている。
歴史という単語のなかにHis storyが隠れているというのはよく言われていることだが、文学は名もなき人たちのための場であってほしい。何物でもない人たちが己を規定する言葉を、言葉を模索する過程を見極めたい。病んだ男の、仕事のない、居場所のない、連携する女の、対立や和睦や融和を、文字の中に確かめたい。誰もがいずれ死にゆく運命ならば。あなたは何を書き残し、語るのか。(本文ここまで)
抱負! ペンギンのように作品世界に潜りペンギンのように刺します! がんばるぞ~。
ちなみに以下が私の書いた小説です。さなコン参加作とBFC落選作。よろしくね。
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