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幸せな瞬間、不安になってしまう

楽しい時間、嬉しい時間、ありがたいことに "幸せだなぁ" と感じる瞬間は多くある。ただ、この幸せが大きければ大きいほど、私は不安を感じてしまう。振り返ると、小学生くらいの頃からこの感覚を持ってしまっているように思う。

小学生の頃、毎日嫌なことがあった。もちろん、嫌なことの中には「先生に注意された」というような、今考えるとあまりにも日常的なことも含まれているのだが、小さな狭い世界で生きていた当時の私にとっては決して些細なことではなく、"嫌なこと"としてしっかり認識していたのである。

とはいえ、自分の中でも嫌なことの大小は感じており、その大小は自分の楽しかった、幸せだったこととのバランスを取っているように思われたのだ。その感覚は、今でも変わらない。

プラスとマイナスの出来事はそれぞれバランスを取りあって、私の人生の中で±0になるように設計されているのだろう


・・・

書き進めながら思ったこと。恐らくこの考え方は、幼い自分を納得させるための考え方だったのではないかと思われる。優等生的な振る舞いに慣れていた私は、最初に目をつけられることが多かった。理不尽に無視されたり、よくあるいじめの対象になることが多かった。最初の環境でビクビクし、心を開いているように見せかけながらも、心の中では高く分厚い壁を作ってしまうのは、幼い頃からの経験をもとに、自分を守るための、仕方ない対処法なのだ。

最初にいじめられるなんて、なんて理不尽なのだろう。しかし、大人になった今でも「私は一旦いじめられる運命なのだ」なんて受け入れてしまっている。この謎の納得感。きっとこの理不尽さを受け入れるための考え方が

「幸せなことがあれば、同じくらいの不幸がある」

なのではないだろうか。この考え方は、今でも私の根底にあるものだ。


「不幸なことがあれば、同じくらいの幸せなことがやってくる」という考え方はよく聞く気がする。私も過去の経験について書きながら、そう考えればいいのに、と思った。

しかし、当時はそれでは納得できなかったのだ。受け入れることができなかった。なぜなら

いじめられる日々には終わりが見えない

からだ。いつ終わるかわからないのに、その後の幸せなんて考えられない。だからこそ、幸せを人生の中のプラスの部分の前借りのように認識し、なんとか自分を納得させていたのだと思う。

今までこの考え方をもつことで、なんとか生きてきた。周りから見ると、上手く生きているように見えているのではないかと思う。自分を傷つけたりカウンセリングを受けたり、多くの人に隠し事を作りながらも、なんとか生きてきた。

生きてこれてしまったので、自分を納得させてきた考え方に、縛られている。「幸せなことがあれば、同じくらいの不幸がある

とても幸せな3日間を過ごした。だから今、とても不安だ。
この幸せのバランスを取るくらい、つらいことが起きてしまうのではないだろうか。何が起きるかなんてわからないのに、とても悲しくて、つらい。

どちらかというと、ここまで仕事を頑張ってきた自分へのご褒美なはずだ。だから、マイナスの部分を前借りしていた方が近い。でも、ふと考えてしまう。きっとこの後、つらいことが待っているのだろう、と。

自分を守るために始まった、プラスとマイナスのバランスの考え。純粋に幸せを楽しめるようになりたい。幸せを、これからの人生の前借りなどではなく、これまでの自分のおかげなのだと、自分を肯定してあげられるようになりたい。この旅行で、少し、トレーニングしてみることにしよう。幸せな自分を、そのまま肯定して、抱きしめてあげられるように。

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