百寺巡礼(024)真如堂 京都 2022年8月27日
灼熱の夏の日差しが京都の古都を包み込んでいた。その静謐さは、時に人を惑わせ、時にその魂を引き寄せる力を持つ。この日、私は真如堂を目指して歩みを進めていた。最寄りのバス停で降りた後、眼前に立ちはだかったのは、厳しい階段坂。その急勾配を登りきるたび、汗が滴り落ち、息が乱れる。しかし、ふと見上げたとき、不意打ちのように現れた壮麗な五重塔が、私のすべての疲れをかき消してしまった。
それは、まるで夢幻の中に漂うかのような瞬間だった。閑散とした境内には、人影一つなく、コロナ禍という時代の影がその静寂をさらに濃くしていた。この広大な空間を独り占めする贅沢。けれども、それは同時に、時間と空間が無限に広がる孤独でもあった。
ふと脳裏に浮かぶ言葉があった。「ただ頼め よろずの罪は深くともわが本願の あらん限りは」
この地で法然が阿弥陀仏に祈願し、その夢のお告げを受けたという話を、五木寛之の文章で読んだことがある。夢と現実の境界線が揺らぐような彼の言葉が、この静寂と調和するかのようだった。罪深い私たち人間の営みを包み込むような、あたたかで深遠な祈り。その意味が、この瞬間、かすかにわかったような気がした。
貸し切りの真如堂は、ただ静かに私を見つめていた。鳥のさえずりも風の音も、すべてがひとつの祈りに聞こえる。人知れず刻まれる時の流れに、私はただ身をゆだねるほかなかった。
この巡礼の旅は、果たして私の何を変え、何を残してくれるのだろうか。けれど、それを考えるのはまだ早い。ただ、この日この時、この地で、私は私のままでいることを許されていた。それだけで十分だったのだ。