#ケイコバ2023 に行っていました【3日目】
※この記事はレポ記事というよりもむしろエッセイです。
正しく失敗することが大切だ──
この教えを得られたことと、この教えを実践できる場に生きていることを、私は心から嬉しく思う。
「2日目がない」と思った方もいるかもしれないが、ワークショップ2日目は、台風の影響で無くなってしまったのである。
3日目稽古〜前編〜
というわけで、再び「ケイコバ!」に赴いた薊詩乃である。たった1日会っただけの座組だが、座組として会えるのは、今日と明日で終わりだ。
こういう感傷は捨て置いて、薊詩乃は薊詩乃であり続けなくてはならない。
舞台での稽古
朝一番、実際の舞台で稽古できる機会に恵まれた。早速、今は亡き2日目の間に考えた、ステージングのアイデアを実践した。
そのアイデア自体は面白いと思う。うまく伝われば面白い。
やりたいことをやるといっても、私は、そこにある程度の分かりやすさが欲しい。私が伝えたいこと、登場人物に起こっていることを分かりやすくするためのアイデアだった。
その段取りを付け、動きについて指導し、舞台での稽古時間は終わった。
簡単に衣装合わせ
今は亡き2日目に、俳優陣に衣装案を提示していた。今日はそれに合うようなものを持参してもらっていたため、それに着替えてもらった。
稽古場助手が衣装を手直し(というより編集? 作成?)してくれたお陰もあって、衣装もだいたい良い感じだ。
このあとせっかく、他者に観てもらえる本番ではない機会があるのだから、衣装や台詞について多少失敗があってもよいだろう。
このすぐ後に成果発表が控えている。たしかに多少緊張はするが、「何も問題はないだろう」と思っていた。
なんと愚かしいことだろうか!
「ケイコバ!」の山場、成果発表
他の班の発表──演出は塗り絵だ
このワークショップにおける目玉であり、最も胃が痛くなり、最も有意義な時間が、この成果発表である。
ここが初めて外部の視線が入り、意見が貰えるのである。
私が演出である班の発表順序は最後だった。面白いと思ったのは、演出家が違うだけで、同じ戯曲がこんなにも違う色に塗られるということだ。
ストーリーテリング一本を突き詰める班、ストーリーラインとは違うサイドライン──物語世界を、物語の外にある世界と関連づける──を描く班。
「私ならこうはしないだろう」
「私はこんなこと思いつきもしなかったろう」
このワークショップは、驚きと示唆に満ちている。演出家同士のベクトルの違いや、その違いの中の似通っている部分を見られただけでも、大いに価値のあるワークショップだ。
そして、最後の順番が回ってきた。
結論:あまり上手くいかなかった
そう、あまり上手くいかなかった。
私がやりたいことは俳優に伝わっているはず。
私の方針は間違っていないはず。
私はこのままで良かったはず……。
しかし、伝えたいことが観客に伝わらず、やりたいことができるようにやらせてあげられず、上手くいかなかったのだ。
外的要因によって国は変わる、これは世界史の常だ。そしてそれは人間にとっても、人間の創作によってもそうだ。
私は正しいはずだったし、正しくあらねばならなかった。
完璧な創作なんてものはない、それを知っていたはずなのに、この私だけは完璧でありたかったのだ!
なんと幼稚な自己愛か!
けれど、少しの指摘でもう総崩れ……「一日中、演出家を演じなさい」という、私の信奉する言葉すら忘れて。
フィラーを重ねて意味不明な言葉を並び立てて、かろうじての体裁を保とうとするその姿は、滑稽どころか哀れで、痛ましく、信頼に値しないものだった。
そんなもの、許されるわけがない。
全ては演出に返ってくる
望む望まざるに限らず、全ては演出に返ってくる。
稽古場とは、演出と俳優とそしてスタッフとで創る空間である。ともに創作のために腐心し、意見を出し合い、高め合う場でもあるだろう。
俳優の演技だけでも、演出家の指示だけでも、舞台は創れない。
そして演出家は、俳優の演技を方向づける役割がある。
それをある種制御し、統制しなければならない。俳優に対し、エンジンをどこまでかけるのか、どの強さでアクセルを踏むのかを提示しなければならない。
俳優がオーバーな演技をしてしまうのも、逆に演技を小さくしてしまうのも、たとえ俳優がトチったとしても、観客は、演出としてそうしているのだと解釈する。
演出家は、俳優やスタッフの分も含めて、すべての責任を持つ覚悟や度量がなくてはならない──発表内容を指摘されて動揺を隠せなかった私に足りなかったものの一つである。
そして、だからといって、責任を一人で抱え込んでもいけない。
座組全員で一つの作品をつくるのだ。
その感覚を忘れてはならない。
演出をつけているその空間、目の前とすぐ横には、ともに戦ってくれる者たちがいるではないか──
批判があるという幸福
嫌いなら離れればいい。もう子どもじゃないし、いまさら意地悪なんてしない。
それが分かっている人達が集まっているワークショップだと思う。排他的で攻撃的な人はそもそも「より良い稽古場を作ろう」という趣旨のワークショップに来ない。
薊詩乃の至らなさを──半ば叱るように──指摘してくれる空間の、なんと有難いことか!
薊詩乃が無知であると、示してくれる人達の、なんと慈悲に溢れたことか!
薊詩乃の失敗を、「それは失敗だったね」と肯定してくれる時間の、なんと愛おしいことか!
「言語化すべきところまで言語化できていない」
「自分一人でなんでも解決しようとしすぎる」
など、薊詩乃の《足りなさ》はまだ有り余る。しかしそれに気付くためには、外部の視線が必要だ。
このワークショップは、批判に晒される場である。
そして、そのあらゆる指摘は、私を貶めたり辱めたりするために行われるのではなく、彼らの中の創作意欲と演劇に対する情熱から来ている。悪意はない。
すなわち非難ではない、れっきとした批判なのだ。
終演後アンケートに、批判する内容が書かれていることなど稀だ。余程気に入らなかったか、余程その上演回でトラブルがあったか、そういう場合でない限り。
つくっている最中は、座組の中から指摘されることはある。しかし、座組のメンバーというのは、少なからず、その舞台をやりたいから集まったメンバーなのだ。
しかし、このワークショップでは違う。
薊詩乃の作品がやりたくて集まった人など一人とていないのだ。
その中でもなお私に対して批判の目を向けてくれるこの幸福と言ったら!
それでも薊詩乃は創る
何者でもないこの薊詩乃にだって、人並みの矜持は持ち合わせている──いくらそれを偏執症だと嗤われようとも!
それは、私が目指す先は間違っていないという誇りだ。
私が本当にやりたいこと、本当に伝えたいこと、本当に見せたいこと、それを疑ってしまえば、演出としての最後の信頼と、私の軸足を失ってしまう。
だがまだ苦しい。暗中模索、五里霧中の日々。
私は理論武装ばかりで技術がない!
ああ、だが、何だろう、苦しいのにもかかわらず、湧き上がるこの感覚──
楽しい。
2023年8月16日 薊詩乃