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9/10-16は、厚生労働省の定める「自殺予防週間」です。

正直に言えば、「自殺はいけないことですよ」という意味が、私にはよく分からなかった。

だって、自殺というのは、自分で自分を殺すというだけの話ではないからだ。
空間的にも時間的にも精神的にも追い詰められ、他に何も考えられなくなった上の、最期のもう一押し。声なき断末魔の叫び。
押し殺した「生きたい」と「助けて」と「死にたい」。

自分を死に追い込むのは自分だけではない。人間と社会に大きな罪があるように思う。

「自殺をやめよう」というのなら、自殺させないように、社会のほうが変わらないといけない。
個人にだけ罪を押し付けて、自己責任と電話相談ダイヤルですべて片付けているのはおかしいじゃないか。

自死と直面するのは個人だけではなく社会なのに。
福祉と公共が保てない社会で生きられるほど、人間は健康ではない。

学校も会社も、自分が悪いのに被害者ヅラしている。

長い時間をかけて情操教育しなければならないのに、そこで心を殺す学校。なにが「いじめ」だ。私はこれが『1984年』のニュースピークのように思われる。

長い時間をかけて情操教育してきたのに、たった数年で心を殺す会社。なにが仕事だ。金と人生を忘れて仕事させたら意味がないじゃないか。

資本主義の奴隷だ。生産性の奴隷だ。
趣味も特技も仕事も全部、金や社会のために消費されている。
人間は金や社会のために生きてなどいない。

社会は哲学を忘れてしまった。
哲学は社会を見捨ててしまった。

私は希望なんて持てやしなかった。

社会は個人に期待する。
社会が個人に期待したところで、個人の倫理だけではどうにもならない。すべての人間が善人ではないからだ。『射精責任』で言われていることをすべての男が護れるわけがない。すべての女が護れるわけがない。

だから私は、「自殺なんかダメですよ」という言葉が空虚に聞こえていた。


でも違うんだ。
それでも言わなきゃいけないんだ。

そのことに最近気づいた。社会は変わらないよ。変わったとて良くならない。

観たくないものは観たくない。聴きたくないものは聴きたくない。行きたくない、知りたくない、生きたくない。嫌いだ。ムカつく。死にたい。消えたい。うるさい。辞めたい。

それでもいいから、別になんでもいいから、私は「自殺なんかダメだよ」と言わなきゃいけない。熱を持って言わなきゃいけない。本当に言わなきゃいけない。

救われてほしいからだ。救いたいからだ。
生きていてほしいのだ。
幸福でいてほしいのだ。

この願いだけは、この祈りだけは、間違った私の言葉だとしても、絶対に正しいと言い切れる。

これが正論だからではない。
それ以外が偽物だからだ。
身体も思い出も価値観も行為も全部偽物だ!

「生きていてほしい」「死んでほしくない」というこの言葉と、その根底にある心。
それ以外の全部が偽物だ。

私は人よりできることが少ない。
けれど、それだけは伝えなくてはならないのだ。

社会を変えることができなくとも、それだけは伝えなくてはならない。

「生きていてほしい」
「死んでほしくない」

この言葉に至るまでに死んでしまった多くの人と、この言葉を言えないまま失ってしまった多くの人。
その数も痛みも完全には分からないけれど、それでも私だって同じことを言わなくてはならないのだ。

どうか、どうか──


2024年9月10日 薊詩乃

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