希望。
薊詩乃のこれまでの作品には、共通するテーマがある。これはあとから気がついたことだ。
それは希望である。
過去作には、「希望」という単語を含む台詞がなぜだか多く含まれていた。
また、台詞ではないが、2023年12月上演の『心のナイアルラトテップ』では、主人公が裏切ってしまう恋人の名が「雪風希望」である。
主人公にとって彼女は希望だったのに、彼の悪徳はそれを選ばなかった。
なぜこんなにも希望について語るのだろう。
それは、希望なんてものを、私が持ち合わせていなかったからである。
2024年9月の公演で自死について書いたとき。当時の私は理由なき希死念慮者で、同時に、死を望まれた存在であった。
希望があるとすれば、私が私でなくなることだった。私は人でなしだから、人間でなくなった。怪物になった。半分はそうなった。
けれどある意味では人間だった。この身体を持っていることが耐え難いほど厭だった。器はいつだって精神を縛りつける。抗えないのは努力不足か?
しかし、書き終わってしばらく経って、私に希望が生まれた。
理由──
理由が手に入ったのだ。
はじめてちゃんとした理由が手に入った。
私には理由がある──それが希望であることが、あなたにはきっと分からないだろう!
足りない、足りない、と嘆いている場合ではない。理由があることが嬉しかった。理由がなかった私に、理由ができたことが希望だった。
時は流れ、状況は変化する。景色が流れれば、私も変わる。聴く時期によって音楽の意味が変わるように、私の物語も意味が変わっていった。
誰でもなかった人があなたになった。
だからちゃんと伝えなくてはならなかった。涙と思想と苦しみと痛みと後悔を謳わなくてはならなかった。
後ろ向きな希望。これは希望であるから、死に至る病ではない。
私にはできることとできないことがある。
私は人よりできることが少ない。
私だけにできることではないかもしれない。
けれど私の超目的は、もうすり替わってしまった。
理由が一つ消えて、本懐の理由に近づく。
理由を遂げられる日をただ待っている。
言葉を書いて待っている。
もう誰も愛さない。
もう誰も許さない。
もう誰も信じない。
もういい。
私という存在も。
私という言葉も。
2024年9月16日 薊詩乃