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【小説】暗がりのスポットライト【#1】

月のない夜を選んで逃げてきたわけではない。

少年が家を飛び出したとき、月齢になんか気を配ってやしなかった。彼は、御守りやら風水やらを全く信じるたち・・ではなかったし、縁起を担ぐこともしなかった。

新月の夜に決行したのは、まったくの偶然であった。
ただそうせざるを得なかったから、ほんの少し勇気を出して、靴を履いて、サムターンのツマミを回しただけなのだ。

人生や運命というものは、偶然性で形作られた砂の城である。風邪で運ばれた砂を、ただ手なりで組み上げているに過ぎない。意志を持って崩せば、二度とその姿に戻ることはない。

彼がその人生を終わらせるべく選んだのは、名も知らぬ神社の御神木であった。その木が、彼の知っている中でもっとも大きくて丈夫な木だったからである。ただそれだけの理由だった。

偶然というものは、まるで運命に寄せつけられているかのように、奇妙な一致を見せるときがある。
彼の生い立ちが不憫であること。彼が今夜逃げ出したこと。そしてそれが深夜二時であること。神社の御神木で首を括ろうとしたこと——その木の下で、《集会》が開かれていたこと——


少年は木の下で足を止めた。そして、薄ぼうやりとした境内のライトに照らし出された《それら》を見て、驚愕した。それらは鳴き声のひとつも上げず、ただじっと、彼を見つめていたからである。自分の首を締めるための縄、それを掴む手にじんわりと汗が滲んでいく。初夏の湿気が彼の首元に息を吹きかける。

そこにいたのは、三匹の生き物だった。その誰もが真っ黒で、夜の闇と融け合うように佇んでいた。魔力とも云うべきミステリアスな魅力を湛えていたので、彼は、《彼ら》が只者ではないと思った。

その一匹——一羽——はからすだった。灰のような埃で全身が汚れていて、羽毛のところどころが禿げていた。しかしながら、その眼は真っ赤な生命力で溢れていた。レッドコーラルのごとき眼をぎろん・・・と回し、少年を見透かしていた。

あるいは、もう一匹は虫だった。黒光りする硬い翅を持つ小さな身体、弱々しい細い髭のような二本の触覚、細かくかさかさと動き回る——それは蜚蠊ごきぶりだった。

三匹目——その後ろ足で身体を掻く度に、赤い首輪についた錆び切った鈴が、からん……ころん……と鳴っている。黒猫である。憂いを帯びたような、あるいは諦観を持ったような顔立ちで、どこか淑女の趣が感じられる。青白い満月のような瞳は、凪を生み出すほどの冷たさを放っていた。

「また、見つかったようね」

黒猫が喋ったのだ、と、少年は直観した。大人の女性の声だと思った。CMで見るような、ウイスキーグラスのまあるい氷を指先で転がすような声だと思った。

黒猫の喉から声が出たのだろうか、それとも何かテレパシーめいた力で語り掛けているのだろうか? 少年は、理性的にそう考えるよりも、正気を失い、黒猫に釘付けになった。

「そうだな……」

今度は鴉が喋ったようだ。胸やけほど若い男の声だ。ガァガァという音も同時に聴こえた。つまり、《喋った》という表現は正しくない。何か不思議な、理解できない、奇妙なことが起こっているらしいが……少年にはその正体が分からない。

「リン、またお前のそいつが、からころ五月蝿くしていたんじゃないのか?」
「そんなことないわ」

黒猫は《リン》という名前のようだ。彼らにはすべて個別の名前がついているに違いない……。

「そんなことはどうでもよい」重く低い声が響いた。人間の声ではないだろう……少年は不気味な想像に発狂しそうだった。

「問題は——」蜚蠊が言った。「——この人間をどうするかだ」


人生というものは、偶然性に紐づけられている。
鴉、蜚蠊、黒猫が人語を話していること。彼が今夜、この三匹に出会ったこと。三匹の生き様を知ってしまったこと。彼が首を括れなかったこと——

そういうことも全て、まったく偶然の産物であって、天上の運命はただ、知らぬ顔して嘲笑うばかりである。

(続)


2023年5月30日 薊詩乃
次話は来週更新


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