#ケイコバ2023 に行っていました【最終日】
※この記事はレポ記事というよりもむしろエッセイです。
最終日稽古・場当たり
4日目の朝。最終日の朝である。
座組のメンバーに、この座組として相対するのは、この日で最後となる。
台風の影響でたったの3日しか顔を合わせていないが、楽しさも苦しさも共有できた3人だ。今後会うためには、何か他の理由がなくてはならない……。
いよいよ最終日の稽古が始まる。
最後の読み合わせを行い、登場人物のアクションの目的やその動機について再確認した。
場当たりの時間が来る。
音響や照明のタイミングをオペレーターとすり合わせて、それを踏まえてゲネプロをする。ゲネプロが終われば、またそれを踏まえてタイミングを調整する……時間はアッという間に過ぎた。
最後に、俳優に身体的な動きの微調整と台詞チェックを行なって、いよいよ、最終成果発表の時間となる……。
この3時間が、このワークショップ内で最も短い3時間だった。
最終発表
時は来れり、いよいよ本番
我々の本番は、全4グループ中2番手だった。泣いても、笑っても、トチっても、ハマっても、これが最後の発表となる。
不思議と緊張は無かった。ただ表出するものを信頼する他に、薊詩乃にできることはなかった。プレイヤーとして戦う俳優陣に謝意と激励を投げかけて、私は自分の席についた──
多少、演出家の意志を超えた偶発性は生まれたが、少なくとも、私が見せたいものの方向性は保ったまま、舞台から照明が消えた。
そのタイミングと音楽の消えるタイミングが絶妙で、思わず笑ってしまったのは内緒だ。
発表後フィードバック
舞台は生物だ。二度として同じ会話はない。二度として同じ演技はない。その偶発性を武器に、演出家は成長していくのではないだろうか──
意見を貰う中で、薊詩乃はそんなことを考えていた。
私は、ストーリーとして伝えたいことを重視し過ぎていた気がする。それが薊詩乃のやりたかったことだし、それ自体は悪いことではないと思う。
しかし、重視している割に、「それを伝えるには演出としてどうすればよいか」「それを伝えるためには何を足して、何を引けばよいか」を考えられていなかった。
そして、私が建て込んだその堅固な土台のせいで、柔軟な対応ができなかった。
ストーリーで伝えたいことを変えないままに、演出プランを大きく変えることはおそらくできた。しかし、私には、発想と手駒がなかった。
ただ、この辺りは、台風で潰えた幻の2日目があれば、変わっていたかもしれない。
俳優陣はよくやってくれた。それだけは紛れない事実だ。
そしてそのために稽古場助手が気を張り巡らせていたことも、同じように事実である。
最終振り返り:薊詩乃の所感
稽古場をより良くするためのワークショップ
このワークショップ「ケイコバ!」の主たる目的は、そのタイトルが示している通り、作品をつくる過程をより良くすることである。
初日にルールを作成できていたおかげで、コミュニケーション不全に陥ったこともなかったし、ダメ出しに終始することもなかった。
ただ、全く滞りなく稽古が進んだとは言い難い。悩むこともあったが、ルールに則って、やりたいことを言語化しながら何とか稽古を進めることができた。
しかし、何もかも言語化する必要はないようにも思える。言語化できない感情だってあるし、大きな目的のない行動や発話だってある。
それに、詰まったときは、一度とにかく俳優の思うまま自由にさせてみるというのも手だと思う。「〜という目的ですので、今からこのシーンをやりましょう」と言わずとも、「今詰まってるのでとにかく自由にやりましょう」と言ってよかったかもしれない……それごとルール化しておけばよかったのかも。
言語化できないものは言語化できないものとして許容することも、場合によっては有効であるように思えた。
演出と意図と解釈と
観ている側は、本当に多様な解釈をする。全てが演出であると思ってしまうものだ。発表後のフィードバックとして貰う意見にも、指摘する人それぞれに気になる点や切り口が異なっていて、それも面白かった。
観ている全員に同じ解釈を与えることはできないし、同じ解釈を強要することも横暴だ。
だからこそ、演出家が方向づけ(direct)をするのだ。
方向づけ、すなわち、表現したいことを現象として表出させるために、照明、音響、小道具、衣装に意図を落とし込んでいく。
その際に、意図のないものがあってはならない──というよりは、演出の意図と反するもの、解釈のノイズとなるものがあってはならないのだ。
観客は、舞台を観ながら、点と点をつないでひとつの絵を描こうとする。そのコネクティングザドッツみを阻害させるような演出や表現は、たしかに不要だろう。
私はその計算があまり上手でなかったと自覚した。なるほどおもしろい。良い発見である。
薊詩乃の世界
全体振り返りとして、他班から感想などをもらっているとき、ある参加者からこんな言葉が投げかけられた。
それを聞いてふと思った。
このワークショップにおいて、他に演出家の役割だった人は3人いたが、彼らを評するときは、「〇〇さんの演出」という言い方をされていた、気がする。
「世界」という単語を使われるのは、この薊詩乃くらいだ。
「〇〇さんの演出」と「〇〇さんの世界」は意味が異なるだろう。そこで私は直観した。
私はずっと、演出をつけていなかった。
私はずっと、世界を創っていたのだ──
演出家(director)は、文字通り、作品や作品世界の方向づけを行う役職だ。たしかに他のお三方は、どの方向で戯曲の世界を表現するか、ということを考えていた。
しかしこの薊詩乃ときたら!
私のこの悪魔的気付きは、喪失であり、転回であった。
薊詩乃の本分は、呪詛としての言葉を撒き散らすことであると自負している。だから今回「演出」としてエントリーしたワークショップだったが、なるほど私の視点は、脚本家としての視点であった。
私は今まで一度も、演出をしていなかったのではないだろうか──声が出ないほど恐ろしい自省である──
しかし、このような言葉が私に向かって投げかけられた。
ただそれだけで薊詩乃の世界は生きるに値する。
創りたい世界がおもしろいことは間違っていないはずだ。これは矜持だ。
だからあとは、私のつくりたい世界を方向づけるように、演出家としての眼を養っていけばよい。その方向づけができたというだけで、大きな成長だった。
本を読もう。舞台を観よう。映画も観よう。
私にはまだまだ学ぶべきことがある。
私にはまだまだやるべきことがある。
だから、この薊詩乃を演出助手として勉強させてくれる働かせてくれる演出家御大がいらっしゃるのならば、どうか何卒……!
おわりに
終わってから早一日。
不思議な喪失感と、喪失感を押しつぶして有り余る期待感、焦燥感。
たくさん失敗した。
たくさん足りなかった。
たくさん悩んだ。
たくさん悩ませてしまった。
それと同じくらい、
たくさん勉強になった。
たくさん学びを得た。
たくさん影響があった。
たくさんの《楽しい》があった。
最終日の私は、フィードバックの時間を恐れていなかった。
それまでは自分の殻に閉じ籠もって、外部からの声に耳を塞ぎがちであったのに、このワークショップでフィードバックを貰うのは、嬉しいことだった。
何者でもない薊詩乃よりも、遥かに含蓄も経験もある俳優や演出の方であるのに、私を見下さず、邪険にも扱わず。面と向かっているときは、一人の創作者として向き合ってくれたことが、本当にありがたかった。
そして彼らの批判は、マイナスなことを投げつけるのでも、非難するのでもなかった。悪意も自己中心的な気持ちもなかったはずだ。
冷静な批判なのだ。私は、そんな空間に今まで存在したことがなかったので、とても幸福だった。
この薊詩乃があの場にいられたことは──幾度となく繰り返したい!──本当に幸福だった。
最後に。
この素晴らしい機会を与えてくださったウイングフィールドの皆様、ワークショップ運営およびファシリテーター・アドバイザーの皆様、ともに戦ってくださった座組の3人、その他全ての参加者の皆様に、心よりお礼を申し上げます。
本当に、本当に、ありがとうございました。
2023年8月18日 薊詩乃
Mon panache!