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【小説】暗がりのスポットライト【#2】
(前話はこちら)
「問題はこの人間をどうするかだ、そうだろう」肝が冷えるほど低い声で、蜚蠊が言った。
「人間。君はなぜここに来たのだ。ここが我々の聖地だと知って、たとえばわしを踏み潰すために、この地に足を踏み入れたのではあるまいな」
黒猫、鴉、蜚蠊に睨まれたまま、少年は動けなかった。声も出せなかった。第一、声を出したところで彼らに通じるのだろうか。そもそもなぜ人語を話しているのだろうか……。
「いいえ、カブト」黒猫が蜚蠊に声をかける。
「この人の右手、ロープを持っているわ」
少年は咄嗟にそれを隠した。
「首を吊ろうとしたのよ、ここで」
黒猫は艶かしい声で言ったあと、小さくにゃあと鳴いた。
「首を吊るだと?」鴉は、があがあ喚きながら彼を罵った。
「そんなことして、人間の怨みがこの御神木に宿られたら、たまったものじゃない! そうなる前に——」
「待ちたまえ、アカメ、もしかしたら、彼は我々の同志であるかもしれぬ。人間が自らの意志でその生命を終わらせるときというのは、決まって、人間に対して怨みを持っているからだ。そう考えると、我々と同じかもしれぬ」
「同じだと? おいカブトよ、バカなことを言っちゃいけねえな。俺たちと人間との間には、そりゃあもう深い深い溝があるのさ。たとえこいつが人間に虐められていようとも、人間は人間だ。俺たちの傷なんて分かりやしない」
「だが、我々を見つけたのは事実なのだ。理由があってここに来たのなら、出会ったことは運命かもしれぬ」
「運命だと? 人間がつくったバカげた空想を享受できるとは、あんたは相当頭が悪いみたいだな!」
鴉と蜚蠊が睨み合っている。夜風はひゅるりと、濡れたようなぬるい温度を保っている。そのとき、黒猫がからんころんと鈴を鳴らしながら、少年に近づいてきたのである。「待て、リン」という鴉の制止を聞かずに。
「私たちの会話が聞こえるんでしょう。そんな人初めてだわ。いえ、こんな時間に、こんな暗闇に来るなんて、あなたが初めてよ。
「さあ、返事をして。どうしてここに来たの。本当に死のうとしているのなら、その理由を教えてちょうだい」
少年は、カラカラの喉のまま唾を呑み込み呑み込み、かろうじて声を発した。
「どうして、言葉がわかるんですか……」
鴉は再びがあがあと喚いた。「なんだ? まともに返事すらできないじゃないか。俺たちのほうが、よっぽど言葉が扱えるようだな」
「やめなさい、アカメ。たしかに彼の言う通りよ。彼は混乱しているわ」
「そのようだ……彼は立ち尽くすばかりで、ともすれば、ここに来た目的を忘れてしまうだろう」
「では先にこちらからお話しましょう。なぜ人間でない私たちが、このように話をしているのか——」
黒猫は、二、三度毛繕いをしてから、話し始めた。
「月というものは、古来から、人間のあいだだけでなく、多くの生物に信仰されていました。太陽の光を受けて神秘的な輝きを見せる月。月は、ただ美しいだけではなく、形容し難い魔力のようなものを与え続けてきたのです。
「そしてその力は、あの光を思い出してみてもわかる通り、邪悪なものを寄せ付けない、神聖なものなのです。月の光がほんの少しでも地上に届いている限り、私たちは呪いを得ることができません」
「そう、呪いなのです。私たちは黒魔術を覚えるまでもなく、自然に、テレパスになれたし、人語を扱うことができるようになったのです。
「こういうことがいつでもできるようになるんけではありません。魔術の稽古を積んでいないわけですからね。制約があります。月が出ているときは何もできません。さらに、丑三つ時でなくてはなりません。
「新月の夜、深夜二時から三時のあいだ、私たちは化け物になれるのです」
「加えて——」鴉がバサバサっと翼を鳴らす。
「俺たちは普通の動物じゃあねえ。黒猫、鴉、蜚蠊だぞ? 不幸を煮詰めたようなやつらばかりじゃないか。
「人間どもはいつだって勝手なことを言いやがる。やれ、黒猫は不幸の象徴だの、鴉は魔女の使いだの、蜚蠊は……何もしなくてもただ不快な生き物さ」
「なんだと」蜚蠊が少し声を荒げる。
「人間にとって、さ」鴉が飄々と躱す。
淡々と、あまりにも淡々と説明するものだから、少年は面食らっていた。こんなにも流暢に話せることも、彼らの中に人間的なさまざまな概念が取り込まれていることも、不思議で仕方がない。「これは夢である」と、今になっても、心のどこかでそう考えていた。
「そして、その呪いの原動力とは——」
黒猫はからんころんと鈴を鳴らす。その音は夕方の郷愁すら感じる儚い音色だった。
「人間への怨みです」
黒猫の持つガラスの目玉が、妖しげに光って見えた。
(続)
2023年6月6日 薊詩乃
次話更新はいつか