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『痛いの痛いの飛んでいけ』

やはり病身の時というのは
体力や精神力を必要とするものが書きにくい。
思い浮べることはできても、
それを文面に練りこむ作業には抵抗がある。

癒しにかかわる話なら書けそうだ。
私が風邪をひいたときに、いつも診てもらっている
耳鼻咽喉科の先生がいる。

今の土地に越してきてどれくらいたった頃だろうか、
軟弱が板についた私は、早速風邪を患って近所のその病院を訪ねた。
診てもらった瞬間、私はここをかかり付けにしようと決めた。

こぢんまりとした普通の町医者で、
行くといつも、ママチャリが入り口前に
ドミノ倒し寸前の危うさで隙間無く陳列されている。
親子連れの患者が多いのは、先生が威圧感のない
女医さんだからかもしれない。

目の前にはうだつの上がらぬ老舗の巡業劇団事務所があり、
その隣はつぶれたカラオケ屋で、はす向かいはつぶれた古本屋。
どちらかと言わずとも、うらぶれたわびしい界隈に
その病院はひっそりと佇んでいる。

しかし狭い病院の中はと言えば、こざっぱりとした
穏やかな気風に満ち、外の閑散とした空気を
感じさせることはない。
それは、中心にあの先生がいることと
密接に関係しているように思う。

先生をサポートする看護婦さんたちもまた、みな親身で
恩着せがましくなく、温和な人ばかりだ。
そこに集う人間の発する気が、場の空気を決める。
初めて先生に診てもらった時が忘れられない。

私は医者というのは、患者を動揺させないために、
たとえどんな症状だろうとも、取り乱したり
しないものだと思い込んでいた。
どの患者に対してもわけ隔てなく泰然自若として応対し、
顔は莞爾(かんじ)と微笑んで

「大丈夫ですよ。必ず治りますから」

というのが医者の相場というものではなかったろうか?

いや、順を追って話そう。
先生は、問診票から目を離さずに
「どうなさいましたかぁ?」と、私にたずねた。
やや鼻にかかった丸みのあるソフトなソプラノだった。
心配している気持ちが、その鼻へのかかり具合に
にじみでていた。

私は極度の人見知りで、初対面の人と接する時など
高鳴る鼓動が相手に聞こえやしないかと不安で、
不安に思うあまり、更に鼓動を早めてしまうような
どうしようもない小心者である。

発言するにもいつも薄氷を踏む思いで、
言うなれば、常時、清水の舞台から
飛び降りっぱなしの役者状態なのである。
それが、先生のその心配げなソプラノを聞いたとたん、
ふっと緊張が緩み、私は言いたいことを全部言えていた。

私が容態を話している間、先生は
私の胸元に視線を泳がせていた。
そう、この先生はけして視線を合わせてくれない。
私は訥々と症状を説明しながらも、
先生の目を何度か見たのだが、
お酒に酔ってとろんとしたような先生の酔眼は
私の胸元とカルテを往復するばかりで
目をあわすということをまるでしなかった。

治療法や薬の内容を伝えるときなどは、
私の目元を見て話していた。
目を合わさない? ダメダメ、そんな医者は信用できん、
という方が中にはいらっしゃるかもしれない。
だが私はそれに、なんら不安を感じることもなかったし、
むしろその応対に、愛おしささえ感じるほどだったのである。

先生の目がどこを見ていようと、
私全体を“診て”いることは肌に感じていたし、
母親の持つ心配や慈愛にも似た優しげな気配が
先生と私の間の底辺にずっとたゆたっていて、
そこに安らぎを感じこそすれ、不安を生じることなど
微塵もなかったのである。

極めつけは、先生が私の喉を診てくれたときだ、
「うわぁ~! すごい真っ赤っかぁ!
赤く腫れてるわぁ~、かわいそう~。
あぁ~これは痛いねぇ、痛いねぇ~」

鼻にかかったソプラノが治療室の天井に
す~っと吸い込まれていった。
瞬間、私は三歳児のように大声をあげて泣きそうになった。
真っ赤だと言われた症状が怖かったのではない。
うれしかったのだ。
先生の心配が、どこまでも
果てしなくうれしかったのだ。

こんな先生は初めてだった。
まるで自分ごとのように痛み、一緒に悲鳴をあげてくれる。
「大丈夫です、すぐ治りますよ」と、手っ取り早く
患者を安心させようとする前に、まずはとことん
患者の心に寄り添って同苦し、一緒に痛い痛いしてくれるのだ。

この一手間が実に深くうれしくて、
30男も涙目にならずにはおれなかったのである。
やんちゃ盛りの幼子が公園で転び、
膝をすりむいた時、大声で泣く前に(泣くと面倒だから)
「ああ、大丈夫大丈夫!こんなのすぐ治るから、
泣かない泣かない」ととりなしてしまう人も
いるかもしれないが、こういう先生に出会うと、
果たしてそれでいいのかなとも思えてしまう。

「どうしたの? 転んじゃったの?
うんうん、すごく痛いねぇ、痛かったねぇ~」
と、まずはその痛みにどこまでも寄り添って
抱きしめてくれたなら、子供としてはどれだけ嬉しいか。

「大丈夫、すぐ治るからね。
痛いの痛いの飛んでいけ~!」
は、次の手順で言えばいいのでは?
これはしかし、過保護にすぎるだろうか?
無条件の愛情を注がねばならない幼児期くらいは、
どこまでも寄り添ってあげたいとも思うのだが…。

ともあれ、我が愛しきトロ目酔眼の女先生が、
人間の患部を医学的科学的に診て診断し、
処方箋をだすだけの無機質な先生でないことは確かだ。
けして目を合わせない、あのとろんとした瞳で、
患者の“心”までも診わけて、そしてまずはそれにとことん
寄り添おうとしてくれる。

次々と先生のもとを訪れる親子連れの患者を眺めながら、
ああ、先生が痛みに寄り添ってくれるあの瞬間の嬉しさこそが、
本当の「痛いの痛いの飛んでいけ~」なのかもしれないなぁと、

そんな風に思った次第である。

水もしたたる真っ白い豆腐がひどく焦った様子で煙草屋の角を曲がっていくのが見えた。醤油か猫にでも追いかけられているのだろう。今日はいい日になりそうだ。 ありがとうございます。貴方のサポートでなけなしの脳が新たな世界を紡いでくれることでしょう。恩に着ます。より刺激的な日々を貴方に。