『ダイバーシティnote』
ぼかぁ感性だけで生きてきてあまり頭がよくないんだけども。そのうち横尾忠則さんですよね? って言われると思うんだけども(言われねえよ。誰にも似てねえだろ。あと横尾さんは頭いーだろ)
アホだからこそちゃんと偉い人の言葉を素直に聞けて関心もするし、ちょと待てよとも思えるし、なんちゅうかちょうどいんですよね。
今日はうわごとばかりで恐縮なんだけども、佐々木かをりさんていう偉い女社長さんがいらっしゃって、国際女性ビジネス会議実行委員会委員長でもあり、米国ニューヨーク州エルマイラ大学名誉文学博士でもある方で、まあ、頭が切れるんですなあ。
昨今よく耳にする「ダイバーシティ」の本質なんかもビシっと猿でもわかるように解説してくれて目から鱗で惚れ惚れしちゃうわけだけども。
年齢も性別も国籍も違う人間が集まって多様性を大事にして会社を運営していく、狭義的には女性の活躍を今まで以上に念頭においた会社の在り方?ってのが、僕の頭でわかってた範囲のぼんやりとしたダイバーシティだったわけで、これじゃあ抽象的で何もわかってないのと一緒だった。
佐々木さんはマグカップを例に出して、快刀乱麻のようにスパスパっと切って見せてくれる。ほんまに頭の良い人って難しいことを簡単に説明してくれるよね。
佐々木さんは「ダイバーシティ=女性活用ではない」と断言し、その本質は「視点のダイバーシティ」にあると喝破する。すなわち、物事や組織をどう分析し、評価していくかということなのだと。
手前みそながら、うたがわきしみグッズの中でも人気を誇る「まめすけ」のマグカップで具体的に考えてみよう。
ここにひとつのまめすけマグカップがある。
いろんな角度から眺めてみるとまったく違う見え方になるのが実感としてわかるだろう。
あるグループがいる角度から見たら、まめすけも見えなければ取っ手もないので「白いコップ」と認識してしまうだろう。
また別のグループから見たら「まめすけ」が描かれてないが取っ手は見えるので、これは「白いマグカップ」だと認識するだろう。
さらに別の角度からみたら、「まめすけ」は見えるけど取っ手が見えないために、これは「まめすけのコップ」だと認識してしまうだろう。
たったひとつのマグカップをとってみてもこれだけの視点の違いがあるのだ。男性が見た場合、女性が見た場合、若い人が見た場合、ベテランが見た場合、日本人が見た場合、海外のある国の方が見た場合、男女の性別ではわりきれない方が見た場合と、実際には人の数だけ視点は存在することだろう。
多様性のある視点があるから一体なんだ?と思われるかもしれないが、要するに、あらゆる角度から物事を分析、評価して物事を進めていかねば、これからの時代は生き抜けないってことなのだ。
トップダウンだけのある会社があったとして、もし全員があのマグカップをあれは「白いコップ」であると思い込んで仕事を進めて発信していたとしたら、当然世界から置いて行かれることだろう。なぜなら、世界や社会こそ多様性の宇宙そのものであるのだから、そんな単一の視点で生み出されたものが、溺れそうなくらい豊かな海の中を泳ぎ渡っていけるわけもないのだ。少なくともその可能性は絶望的に低いものになるだろう。
だが、多角的にあらゆる視点からの意見を取り入れて、これは「まめすけのマグカップ」であるときちんと評価、分析ができている会社は、前述した会社より、よりまっとうに、より健全に運営していけるはずである。
(閑話休題)
ダイバーシティの考え方はだいたいわかったが、それがいったい何なのだ、と思う人もいるかもしれない。僕もその一人だった。いろんな人の、いろんな考え方を、いちいち取り入れてたら真逆の意見や価値観を掲げてくる人もいるだろうし、ぶっちゃけ多様性をいかすなんて理想論で、実際は収拾がつかないんじゃないかと。
ここにダイバーシティに対する誤解があると佐々木さんは言う。ダイバーシティとは、何もそれぞれの自分勝手を許すことでも、それぞれの価値観の違いを受け入れることではない。そんなことでは本当に何も進められなくなってしまう。
ダイバーシティがそもそもなぜ必要なのかといえば、それは組織や会社が健全に前に進むためにあり、個人個人の力が本当の意味で発揮され、チームとしても最大限に効果的に活躍するためにある(らしい)。例えば佐々木さんはこう言ってる。
「16時に帰ることを許すのは、それによりその人が16時までに大きな成果をあげて組織に貢献するからであり、また16時以降の体験がその人の中に新しい視点を育み、将来仕事にも還元されるからである。在宅勤務を認めるのは、その人が在宅で仕事をすることが、スキル面でも業務面でも、チーム全体にとって必要不可欠であり、プラスになるからである」
確かにそれぞれの視点によりそって、単純にわがままを許しているのではなく、それが会社が前進するために最も効果的であると分析し、判断された上で取り入れていってるのがわかる。これをそれぞれにやるのは大変かもしれないが、もしやれていたとしたら、その組織が強くなるのも頷けるではないか。
また、このダイバーシティを取り入れたことによって、おのずと一人ひとりの働き方の変化が必要になってくると佐々木さんは言う。
「年功序列、終身雇用の組織だったら、特に何も発言しなくても、提案しなくても許された。問題を起こさず、言われた事をやっていれば、そこそこ毎年昇級し、いい会社人生を送ることができた。会議に参加していても、特に発言をしないで良かった。毎日従事している業務に関しても、改善案を提案しなくても「前の人から教えてもらった通りです」「いただいたマニュアルの通りにやっています」等という仕事ぶりで、特に大きなマイナス評価にはならなかった。(中略。だがこれからは)一人ひとりの働き手なのだから、働き手が各自の立場で、自らを高め、自分の考えをまとめ、提案する力を育て、組織に貢献する事が求められるのだ」
つまり、ダイバーシティっていうのは、どんな多様性も受け入れますよ的な受け身の考え方じゃなく、組織や会社がより前に進むために積極的に「自分の立場ならでは視点を所属母体に提供していく」と主体性の強いスタンスの組織哲学なのだ。
「どんな人でも受け入れられるという事実と、そのためには誰もが貢献する必要があるという事実、両方が共存して初めて成り立つ進化した組織である。年功序列の下、穏便に会社で働いていれば良かった時代は終わり、自らを高め、貢献する時代にシフトしているのだ。それも、必ず、チームの総合得点を上げるという目標に向かって」
ただ職場へ自分の立場ならではの、ある種のわがままを訴えるだけではダメで、そうすることでどんな貢献ができるか提案し、実際に現在以上に効果的に会社を前に進めていくようにする。できるだけ素早く社内のありとあらゆる分析・評価を集め、健全な視点で、個人個人が分厚い効果を発揮し、商品も組織も豊かな底上げを繰り返し、多様性の世界で勝利をものにする。
結論として「やれやれ、とんでもねえ時代になったな」などと言いたいわけではない。これは一連のnote改善問題(きしみの一人相撲問題)とも関連付けて考えられると思うのだ。
一人ひとりのわがままを聞き入れろ! と言っているのではなく、noteのクリエイターたち(もしくは運営組織そのもの)が、本当の意味で豊かな前進をするために、それぞれ自分ならではの立場で発言し、考え方を提供していってもいんじゃないだろうか。
コメントの件でいえば、僕はあれが自由になれば、委縮することなく、その場の臨場感も含めて、とてもエキサイティングな創造的な会話を叩き出せるし、クリエイター仲間たちと刺激し合い、より創造的に活動することができると思う。
少なくとも我らがnote醸し部の視点で言わせてもらえば、コメントが自由になることでクリエイター同士がのびのびと刺激し合い、モチベーションもあげられ、より有機的に濃密な宇宙を構築していけるはずである。
それは、noteにとってすごくプラスなことだとぼかぁは思う。だってあんなに活発なコミュニティ他になくね? この豊かさのポテンシャルをスルーして手放すつもりなのか? noteにとって大損だと思ってるの我々だけだけども←
追記:目安箱もいいけど、オープンにしていい人は、#note改善とかで記事書いて、運営さんが適宜判断すればいんじゃね? もうやってる人はやってるだろうけども。なにはともあれ、これからってときに打ち止め食らわせて興をそがれるのだけはもう勘弁してほしいっすよ。