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『宇宙クリスマス』

 ――マルコ・ポーロはとある橋の姿を、その 石の一つ一つに至るまで、描写している。
「だが、その橋を支えている石はどれか?」と、フビライ汗がたずねる。
「橋は、あれこれの石一つによって支えられ いるのではございません」と、マルコは答えて言う。
「その石の形づくる”アーチ”によって支えられているのでございます」

クリスマス間近に話す内容でもないが、いわゆる全知全能の創造神なんてものは信じてない(神ならたいがい間に合っとるし)。

いるとすれば、それはそこに生きるそれぞれの命(内宇宙)と、それら全てを包含し、生生流転しゆく外宇宙そのものが神的な存在と言えよう。

それは「宇宙生命」といってもよかろうし、我々はみな星屑から生まれた宇宙生命体の細胞の一つであり、その意味においては「人類みな兄弟」はひとつの真理といえよう。

我々はあくまで個々として自立し、思い勝手に存在しうるが、波頭の粟粒ひとつと海とが不可分で切り分けられぬよう、一粒の泡で在りながら一匹の宇宙生命全体足りえる存在だと直感している(心的宇宙。集団的無意識。深層心理の最奥ではみな繋がっているのは道理だ)。

また、神性の発現の何たるかは”人の振る舞い”の中においてこそ見いだされるべきもので、少なくとも駐車場で注意されたからむかついて殺した、などという畜生にすら悖る行為の中には神性の欠片もあるまい。

人間が人間らしく生きていくとはどういうことか?
人間を人間たらしめる振る舞いとは何か? 
常に問いかけながら時折は宇宙を仰ぎ、永遠の実感に思いを馳せては心を進化――あるいは深化させいく。
その過程に「希望」という名の神性を見出していけぬものかと切に願うのである。なんぴとも覆しえぬ「生老病死」という生命体のリズムを味わいながら、飽くことなく。

なんちって。

水もしたたる真っ白い豆腐がひどく焦った様子で煙草屋の角を曲がっていくのが見えた。醤油か猫にでも追いかけられているのだろう。今日はいい日になりそうだ。 ありがとうございます。貴方のサポートでなけなしの脳が新たな世界を紡いでくれることでしょう。恩に着ます。より刺激的な日々を貴方に。