『あなただけに教えちゃう!「“ロ”の領域」を10倍楽しく読む方法!?』
ある日、中身の薄い、空虚な三文SF小説(通称マカロニ小説)から切り離された登場人物が、ふと自我に目覚め(おそらく切り離されたことがきっかけ)、メタな存在となり、読み手の我々と、リアルタイムで目があって震え、でもどうせ、自分たちは意味のない垂れ流し小説のどうでもいい登場人物のどうでもいい芝居の部分だし、そもそも画面の向こう側の宇宙の住人(我々)たちの操り人形なわけで、自分たちに選択肢などないし、この先どうなろうがいずれにせよ意味はないよね、っていうだけの話です(笑)
って、それじゃざっくりしすぎかしらw
でもそれですべてだからw
内容の乏しい、空虚な三文SF小説――通称マカロニ小説があったとして、それがたとえば第三章まで書き上げてあるとき、編集権利のある作者か、あるいは別の誰かでも構いませんが、二章だけ、データの場合ならCtrl+Xあたりで勝手に切り取るか、部分コピーで抜き出して、ペーストでどこかに張り付けようとしているとします。
(紙媒体なら、プリントされた二章のページだけ破られたのでしょうけど、未来だから、これはもうデータでしょうな)
その二章の登場人物に、まだ自分たちが小説の登場人物だということを知らない、しかし勘が悪いわけでもない主人公Aと、すでに自分たちが小説の登場人物だと気が付いているBがいたとして、Bが「今誰かに、俺たちが出ている箇所が奪われたな」とかメタよりな発言をしたら、Aが「え? どういうこと?」ってなりますよね。それが冒頭にあたるわけです。
そんで、どういうことかとAが自分なりに色々思いを巡らしてるうちに、その小説ページ(noteでもいいですが)にアクセスして、画面の向こう側からそれを読んでるあなた、あるいは切り取って編集しようとしている張本人と目があって震えるわけですね。
寺院の天井はネット宇宙を抽象化したようなもので、今、この小説にアクセスして観ている全員のパソコンの画面やスマホの画面、そしてそれらを起動させている電子機器でびっしり天井を埋め尽くされていると思ってください。そのうちの一つの窓――実際今これを読んでいる人(あなた自身)、もしくは編集しようとして切り取った張本人=の画面で、目が合う、と。
「あ、いま、これ読んでる? 読まれてる? あんただれ? なにもの? わたしはAってんだけど、切り取るなんて、なにしてくれちゃってんの? これからがいいところなのに……いや、すまん、思い出した、というか理解した。この小説、いいところなんてなかったわ。どこを切り取ってもマカロニのように中身がないんだった……」とか、どんどんメタ発言しちゃう物語がよくあると思うんですが、その手法ですね。
ロの領域の『元ネオヴァチカン市国の枢機卿だったはずの男が、突然ハイパー密教僧ジュゼッペ・バルバロッサになって登場している』とかいってる部分は、ちょっとややこしいですねw
自分らは、それを呼んでいる読み手側、あるいは書いて編集しようとしているサイドの連中――すなわち画面の向こう側の住人である我々の操り人形でしかなく、どこでどう登場するとか、好き勝手に認識され、いじられてしまう存在だってことなんですが。
読み手は、いろいろと想像しながら読むでしょ、たとえばAはひょっとしたらBの化身なんじゃないか?とか、そう思い込んだり、推理しながら読むじゃないですか。で、ちょっと認識論とか実存っぽいところを突っ込んでる箇所で、ここはたぶんこのままでぜんぜんわからない箇所だと思うんですがw 「人間」、あるいは「自分」という存在はどこにあるのか?って話で、「人と人の間にいる」ってのと似てますね。自分も、Aさんに見せる顔とBさんに見せる顔って違うけど、どっちが本当の自分なの?って言われると、どっちも自分なわけで、そして、Aさんから思われてる自分と、Bさんから思われてる自分象も違ってて、本当の自分はどこにいるのかって。そんなもん、人の数だけ無数に存在しているわけで、「自分」が人の間に、人の数だけ無数に存在してるんですよ、それぞれのかたちで像を結んで。
これを、本と人との間に置き換えていってる箇所だと思うんですよ。つまり、登場人物AのことをBだと思いこまれたら、その瞬間、その登場人物はその人の進行する宇宙の中では、思い込んでる限り、Aは本当はBだろ、っていうていで存在していくんですよ。
そこにひっかけて、自分たち登場人物の宇宙ってのは、読み手の勝手な思い込みで、その都度かたちをかえていく、どうにでもなっていく、操り人形そのものだってことに気付いたったことなんですね。小説自体の宇宙がもうどうしようもなく、そうして読者さんたちによって、読者さんの数だけ、無数に編まれていく存在だもの。
さらに、「読んでる」だけじゃなくて、実際書いたり、編集したりしている張本人である可能性もあり、そうすると、この小説の登場人物たちはますます好き勝手にいじられてしまう存在といえるわけですね。どの登場人物もみんな作者ひとりが演じ分けているわけですし、こいつの正体は実はこれでしたー!って決められて登場させるのも自由で、まあ発言を見る限り、実際、そうされたであろうことがAにはわかったんでしょうね。Bは、もっと以前からわかっている立場の人間で、冒頭のマカロニ発言自体もうメタよりだし、それを濁して禅問答風に言ってるんですよね。たぶん。
Aはそれに気づいたからラストで、その自分の立ち位置を正確に理解し、あきらめムードになるわけですね。しょせんは、内容のない三文小説のエキストラでしかない自分。登場人物たちは最初から選択肢なんか許されないまま、勝手にどうでもいい舞台にあげられて、読み手、創り手の思うがまま、いいように解釈されて、操られていくしかない存在なんだと。すべては、画面の向こう側――こっち側の宇宙の住人のなすがまま。どこをどうきりとられて、貼り付けられようが手出しなんかできっこないし、そもそも意味のない垂れ流し小説の空虚な一部である自分たちを切り取ってどうしようと意味はない、と諦観ムードでおわる。切り取られた自分たちも、切り取られずに残った本編も平等に意味がない、そもそも空虚な物語なのだからと。
最後に「刻の墓標参りに訪れる刻視(ときみ)の修験者たち」についてですが、要するに自分たちが小説内の登場人物であるととっくの昔に気づき、さらに、誰かに読まれること、あるいは書かれることによって、自分たちの宇宙は変容を余儀なくされる操り人形であることにも気づいている連中ですね。もう自分達は登場人物として生まれた時から生の自由を剥奪だれ、ひたすら、刻(時)の墓場を永遠に彷徨い続ける存在みたいなもの、と悟りきっている連中ってことですね。
また、この小説もひとつの宇宙でしかなく、別な本には別の宇宙があるってことにも気づいていて、それらの宇宙にも、それぞれ自分たちと同じような存在がいて、この寺院とよばれるところをターミナルにして、巡礼というか、行き来している存在たちなんだと思います。
いろんな本の宇宙がたくさん集まって眺められるところ――まあ、noteもあるいみそうですね。そこがひとつのターミナルな寺院ですね。彼らはたぶん、悟りきった役者でもあるから、いろんな本を渡り歩いて、操られることをよしとして、自分の役目を、その読み手の温度や書き手のこまやかさに合わせて、演じきっていくんだと思います。
考えてみると、大変ですよね、小説の登場人物たちって。同じ本でも、それを地球のあちこちからアクセスされて、そのページを読まれるたんびに起こされて、いいように解釈されて、その通りに演じなきゃいけなくて。って、醸されまくってるじゃないですかw
僕は、このリアル世界の宇宙(アナザーユニバース)の住人でよかったなあ(´ー`)だって醸す側でいられるんだもの(笑) 本の世界の住人たちの間では、我々の住んでるこのアナザーユニバースは、あるらしい、という都市伝説になってますw Aのように、その宇宙の扉を見つけて開いちゃった登場人物は、新たな刻視の修験者になっていくのでしょうね。
まあ、そんなところですかねw 長い蛇足になってしもたが、これこそ駄文の極み、マカロニ三文解説の宇宙なり(笑)
水もしたたる真っ白い豆腐がひどく焦った様子で煙草屋の角を曲がっていくのが見えた。醤油か猫にでも追いかけられているのだろう。今日はいい日になりそうだ。 ありがとうございます。貴方のサポートでなけなしの脳が新たな世界を紡いでくれることでしょう。恩に着ます。より刺激的な日々を貴方に。