#50 「江原素六の生涯」を読む(その3)
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こんにちは!総務副局長のそりだすたーです!
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幕臣となった江原素六先生
先生は講武所を経て幕臣として武士となります。ハリスの警護や徴収討伐、鳥羽・伏見の戦いなどを幕府の武士として経験した先生は、戊辰戦争に巻き込まれます。
先生は撤兵隊として江戸を守る役をしていましたが、官軍への徹底抗戦を叫ぶ部下たちが千葉に移動、「徳川義軍府」との名のもとに集まった兵を率いて江戸方面へ進軍します。これを市川・船橋戦争といいます。ここで先生は朝敵となったのです。
江原軍は一時市川を制圧する活躍を見せましたが、結局敗北し退却することとなります。ここで先生は官軍の福岡藩士小室氏に斬られそうになったところで辛うじて部下の助けが来て九死に一生を得る経験をしています。その後は千葉県船橋市の山野地区で匿われると同時に治療を受けました。新政府軍からは幕府軍は匿うな、報奨金を出すから報告せよと言われていましたが、山野は幕府の直轄地であり年貢の面などで幕府に恩を感じていたということで当時の名主の方が匿うことを決めたそうです。先生は3発の銃弾を受けていましたが、運良く弾が抜けており、また当たりどころも動脈を外れていたため助かりました。治療には消毒用の塩と焼酎をつけた縄、そして薬草を用いたそうです。
山野地区のエピソードについては麻布で昨年開催された講演会「江原素六と私たち」で山野の名主の子孫の方がお話してくださった内容を参考にしております。講演会でお話してくださった山野地区の方、また講演会主催の麻布学園PTAの方、ありがとうございました。
さて朝敵となった先生はその後徳川家とともに静岡、沼津の地に流れます。
朝敵ではありましたが人材不足もあって県の参事等重役を務めました。また藩の代表としてアメリカに視察に行った経験から酪農や製茶など元武士たちとともにビジネスを興しました。
ここから先生は沼津で教育、そして政治の世界に拠点を移します。
そりだすたーです。遅れました。私は4月から高校1年生になるわけですが、学年表記どうしましょう…
編集者より
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