あっきゃんです。はじめまして!
本日のライター:あっきゃん(秋山楓果)
みなさま、はじめまして。
秋山 楓果(あきやま ふうか)と申します。
私は「あっきゃん」という名前を使って、Twitterで文章を綴っています。
noteに憧れを抱き、長文は苦手だからまずは短文で、と始めたのがTwitterでした。今ではTwitterフォロワーは3万人を到達するなど、たくさんの方に応援してもらえるようになりました。
そんなこんなでTwitterを始めてから1年が経ちました。
憧れだったnoteを、ようやく始めてみる時期になれたのではないかと感じます。
ということで、
今日から少しずつnoteを書いていこうと思います。
「noteで長文を書けるようになるのが目標」とは発言しながらも、note自体あまり見たことがありません。笑
私が書きたいこと、綴りたいこと、紡ぎたいこと。
自由に私らしく、ありのままに伝えていきたいと思います。
今日から、あっきゃんの奥にいる「秋山 楓果」を知ってもらえると嬉しいです。
ずっと何者かになりたかったのかもしれない
私がTwitterを始めたのは2020年12月19日。ずっとお世話になっている方から、ある日こんなことを言われました。
と言われたことが、私の人生を変えるキッカケとなりました。
個人の時代って最近よく聞く言葉だけど、私なんてただの会社員。
このままの自分でいることって、果たして正解なのだろうか?
そんな感情を抱くようになりました。
noteはブログのような長文で発信するSNS。国語嫌いな私がそんなもの書いてられるかよ、と一度は諦めました。だけど、初めから敬遠するのではなく、やってみないとわからない。長文をハードル高いと感じるなら、短文から始めてみるのはどうだろうか?
そう感じて辿り着いた私なりの答えが、
というものでした。
個人の時代到来に向けて、徐々にでも準備をしないと時代に取り残される。そのためには自分から発信をしなければならない。つまり、文章力を身につける必要があるのではないかと。
こうしてちょうど1年前にTwitterを開始しました。人脈もなければスキルもない、ただの一般人です。
「文章力をまずは身につけるんだ」
その信念だけを揺るがさずに今日まで頑張ってきた結果、数百人止まりだったフォロワー数から、100日で2万人となり、今では3万人を超えました。会社員を辞め独立し、社会人学校の講師になり、来月書籍出版まで決まり、激動の1年となりました。人って、たった1年でこんなにも人生を大きく変えることができるんだ、と何処か他人のように感じてしまっている自分もいます。未だに実感がない、という表現が今の自分にフィットします。去年の私と比べると、見違えるほど見える世界が変わりました。
でも、なぜTwitterを伸ばし、人生を変えることができたのか?
これまでの私の人生にヒントがあるのではないかと考えます。
言葉を紡ぎながら、今日から少しずつ考えていきたいと思います。
パソコン操作は5歳でスタート
1996年、香川県で生まれました。
海、山、川、池に囲まれた自然豊かな町でスクスク育ちました。
父親の仕事がIT関係だったこともあり、小さいころからパソコンが家にありました。すぐにバグが起きるめちゃくちゃ分厚いパソコンだったことを今でも覚えています。父がパソコンをカタカタ叩いている姿を見て憧れ、5歳の頃にはローマ字を覚えてパソコンを操作してました。
と口うるさく言ってました。母親に50音順のローマ字を画用紙に書いてもらい、難なく習得することができました。子どもの頃って、記憶力凄いですよね。夢中なことや自分の好きなことって一瞬で頭に入るんですよね。あの頃の記憶力に戻りたいとさえも思います。
パソコンを打てるようになってから、『ハンゲーム』という無料のオンラインゲームサイトで、ユーザーたちとチャットしながらゲームをするのが大好きでした。
「4649」
と言われ、
「いみがわからない」
と返信した瞬間、私が遊ぼうとしていたゲームルームを、顔色変えた母に強制退出させられたことがあります。
当時「4649」とは、「よろしく」をフレンドリーな感じで伝えるオンライン用語だったそう。パソコンデビューしたばかりの5歳の私には意味がわからず、仲良くしようとしてくれる相手を一言目で遮断してしまったことがあります。懐かしい。テトリス的なゲームをしながら、器用にチャットするのが、保育園終わりの日課でした。画面の奥にいる顔の見えない大人たちと対等な立場でチャットをすることで、保育園友だちとはまた違ったコミュニケーションを学ぶことができました。
ゲームが私を形成した
私が6歳だったころ、妹が生まれました。しかし、妹が生まれる前、1ヵ月ほど母が入院することになりました。私は祖母に面倒を見てもらうことになったのですが、問題がおきました。
祖母の家にはパソコンがありません(泣)
毎日ショッピングセンターへ連れて行ってもらい、その中のゲームセンター内にあった『太鼓の達人』というゲームと向き合うことで、両親との離れた生活の寂しさを忘れようとしました。
太鼓の達人とは、楽曲に合わせて太鼓の面やフチを叩くゲームです。当時、長い列を連ねていた大人気ゲーム。私とは格段と年齢が離れた中高大生がゲーム前を占領してました。「かんたん」「ふつう」「むずかしい」(さらに高難易度の「おに」もあるのですが、確かこのときはまだ存在していなかった)という3段階のプレイ難度があり、ドカドカ物凄い勢いで「むずかしい」を叩いている人が現れると、ゲーム前が観客で賑わいます。
そんな気持ちで始めてみたのがキッカケで、妹が生まれた頃には「むずかしい」で遊べるようになりました。6歳の私には太鼓台の位置が高くてちゃんと手も届いていなかったので、小さめの台に上りながら叩いていました。毎日欠かさず祖母とゲームセンターへ足を運び、1日5回ほどは叩いていたと思います。「むずかしい」ができるようになるまで、決して諦めなかったのです。小さい女の子が、大人顔負けのバチ捌きで叩くもんだから、ゲームする度に観客が集まりました。毎日500円も使わせてくれた祖母には感謝しかありません。おかげで今では「おに」ができるようになりました。
「頑張る」と決めたら、「頑張った」と思えるまで頑張らないと、気が済まないゲーム好きな幼少期でした。このおかげで、一度決めたらやり遂げる、負けず嫌いな私が作られていきました。
0 → 1 を捨てた小学生
小学生になり、先生から授業を受け、学習できているかどうかを確認するテストが始まりました。算数と理科が得意で、テストはほぼ全て100点を取っていました。98点の日には、なぜ解けるはずの問題が解けなかったんだろうと、たった1問のミスすら許しませんでした。完璧主義でした。
ですが、どれだけ頑張っても点数を取れない科目がありました。
それは「国語」です。
読解問題だけは点数の取り方がわかりませんでした。
算数や理科は、見つけ出した答えが合っていたら正解、間違っていたら不正解。白黒はっきりしたシンプルな科目でした。公式や解き方の基本さえマスターすれば、なんとでも応用が効く科目でした。
一方、読解問題においてはどうでしょう。これといった解き方がなかったのです。先生によっては、間違っていたとしても正解にすることができるし、合っていたとしても不正解にすることだってできます。私にとってはめちゃくちゃグレー。
字数関係なく解答できる問題において、○でもなく×でもなく、△をつけられたことがあります。周囲の友だちは、私と似たような解答を書いており、○がつけられていました。何をもって△にされているのかわからず、なぜ△なのか、先生に質問してみました。「うーん、これはなんか違うんだよね」と言われたことを覚えています。訳がわかりませんでした。この日を境に、挫折します。明確なルールを私の中に設けることができませんでした。私は国語ができないんだ。
読解問題は解けないものだ、と自分に言い聞かせるようになってから、国語が増々嫌いになりました。特に夏休みは大の苦痛。読書感想文はこれまでで一番嫌いな宿題でした。本を読んだ感想を原稿用紙に書くんだよ、としか教えてくれませんでした。正しい書き方がわかりません。母親が考えてくれた感想文をそっくりそのまま書き写したりもしました。
無理だと感じたら、割り切る。
その代わり、得意だと感じたら、人よりも特化できるように頑張ればいい。
中途半端なことはしない、頑張ると決めたものだけ頑張る、このスタンスで毎日を送るようになりました。中学生のころには、数学は学年でもトップクラスの順位を取れるようになったけれど、国語は平均点以下。器用にバランスよくこなすことができず、極端な人間になっていきました。
幼少期を思い出しながら書いていたのですが、変わり者な私はもうこの頃から始まっていたような気がします。ただのTwitterの1投稿につき、3時間も4時間も費やすようになるんですから。普通、ここまでやらないですよね(笑)
ということで、今日はここまで。
読んでくれてありがとうございます。
次回をお楽しみに!
これからこのnoteで書籍発売を記念したコンテンツがたくさん出るみたいなので、楽しみにしていただければ嬉しいです。