わたしとジャニーズ
東山紀之氏に、一度だけお会いしたことがある。
六本木交差点から外苑東通りに入ってすぐの4階建ビルのアパレルショップ「J」。その少し先に行くと2005年に一時閉店してしまった「バーガーイン」や解体が噂される「ロアビル」がある、そんな場所でのことである。
表向きは某メンズブランドのアパレルショップだが、実際はジャニーズ事務所のステージ衣装やMAHARAJAの制服などを手掛けていた。母親の知人のツテで、社会勉強をしてきなさいと18才から21才位までそこでショップ店員としてアルバイトをさせてもらっていた。1986年当時のこの界隈は、まさに日本のバブルの象徴ともいえる特別な場所であったことは言うまでもない。
店長の黒い革製の分厚いアドレス帳を開いてみたことがある。そこにはジャニー喜多川、メリー喜多川…とそれぞれの自宅電話番号が書かれてあった。これが門外不出の個人情報であるということは、当時の私であっても分別がついた。見てはいけないものを見てしまったような気持ちになり、慌てて手帳を閉じたことを覚えている。
ジャニーさん御用達の店ということもあり、事務所のタレントさんたちもよく訪れていた。ジャニーズファンなら夢のような空間だったのかもしれないが、私にはそうした恩恵は特に感じられなかった。そんなわけでジャニーズのタレントさんやその他の芸能人、マハラジャの黒服や野球選手たちに対しても、他の一般客と同じような接客をするので、それが面白くないと思う人たちが少なからずいた。そういう人たちは決まって店先で「◯◯なんだけどさ、店長を呼んできくれないかな」と声高に叫んだりしていた。
そうした中で、東山氏は少しだけ雰囲気が違っていた。店に一人で静かに入って来られると、普通のお客さんのように商品を見てまわった。ただ「普通の人」ではないから、すぐにそのオーラで分かってしまう。
( あ、東山さんだ… )
「いらっしゃいませ。あいにく今日は店長が留守にしておりまして。」私からそう声を掛けた。
「そう。じゃあ、君が案内してくれるかな。」
「わかりました。」
1階~3階までのフロアはエレベーターがないので、階段を上がっていかなければならない。私は入荷したての商品などを淡々と説明しながら3階までのフロアまでゆっくり進んでいった。2Fのフロアにあったパイソン柄のベルトを手に取られ、少しの間見られていたような記憶がある。その際は何も購入されなかったが、最後に一言だけ「ありがとう」とお礼を言ってから目深に帽子を被り直し、店の外へと出て行かれた。
この日は、店長以外にも何人か重鎮のスタッフが私の案内では心もとないとハラハラしながら身構えていたのだが、彼らを指名することはせず、あえて最後までアルバイトの私に案内をさせた。私にとってはこのショップに来て初めて一人前のショップ店員として扱ってもらえた瞬間だった。それから私は「仕事って意外と楽しいものなんだな」そう思えるようになっていった。東山氏は私とそう年齢は変わらないはずなのに、落ち着いるせいなのか、とても大人に思えた。あの当時は確か「仮面舞踏会」が大ヒットしており、日本中が少年隊に熱狂していた時期だったはず。そんな人気者が、特別扱いされることを良しとせず、誰にも相手にされない私に「あなたの仕事振りを見せてください」といった対応をしてくれたのはどうしてなのだろう。それが優しさだったのか、ただ単に早く商品が見たかっただけなのか、その真意のほどはわからない。ただそこにスポットライトはなく、カメラも回っていない、そうした状況下で取る人間の行動というのは、その人の本質が現れるものだと私は思っている。東山氏の佇まいや発する言葉からは、品位や優しさ誠実さというものすべてが備わっていた。
誰も背負いたくない「ジャニーズのこれから」を背負っていく覚悟を決めた東山氏。私に一つ一つの商品を説明させながら、同じ歩調で階段をゆっくりと一段づつ上っていってくれたように、これからは表現者としてではなく、経営者として人材を育てていく手腕を発揮していただきたいと願っている。そして自身が経験したエンターテイメントの素晴らしさを伝承していってもらいたい。
アパレルショップ「J」は、その後バブル崩壊とともに倒産し、自社ビルがあったその場所は、今も更地のままになっている。ジャニーズ事務所の真価は、これから問われることになるだろうー。